奥平家は、徳川家康の娘を娶った縁で譜代大名としての地位を確立しています。そして、奥平家には忠義者が多い。特に鳥居強右衛門が有名ですね。 m(_ _)m
夫婦仲が良かったよりも主君の娘である亀姫に気を使ったのと亀姫自身の気の強さで側室を持ちたくても持つことが出来なかっただけでは❓️😅
日本人の 建築·土木技術と美的センス
亀姫の生まれ変わりは市川亀治郎さんこと市川猿之助さん、嫡男の奥平家昌の生まれ変わりは香川照之さんです。二人は、幕府に背き京都の六条河原で弟子と共に耳と鼻削ぎの刑を受けた、日蓮宗の日経上人の生まれ変わりの公安OBの坂本に陥れられた😨🤢前世の本人やその一族の所業や他人の恨みは今世までも引っ張られるのだ😥
宇都宮の吊り天井
ここまで歩くのは大変ですが景色は絶景でした。🎉
なかなか素晴らし山城🏯だと思いました!
徳川の世の中になって、こんな浪人ぐらしをしていた人は多々あります。 時世がその人を必要としていたかどうかに関わります。 m(_ _)m
足利義昭の子孫は散らばっていますね。足利を名乗らずに他の人の養子に入るなどして、でも当時の家柄重視してみたら、申し分ないことと思います。明治維新や西南戦争他のなどに活躍の場を子孫は見いだしていたのですね。うれしいことだと思っています。 m(_ _)m
一族、残党が、足利を名乗っいますから、子孫はかならずいるはずだと思いますよ。 この人達は、室町幕府の終焉を経験した人ですが、もう時代が、室町幕府そのものをいらないと思ったのですね。 m(_ _)m
山田風太郎の「柳生忍法帖」また読みたくなった🤓 マンガ版もあるよ🙋
統合失調症だったって言われてるよね
京都所司代といえば、板倉勝重が有名ですが、この所司代は京都の中でも、奉行としての役割を兼ねています。朝廷のことの交渉や、典礼作法等の役割を担っていて、役回りとしては難しい役目であり、やりがいのある役職です。 朝廷を抑え込む役割も果たしています。それを任されることは相当の信用がないとできませんよ。奥平信昌公はそれに答えていたのですね。 m(_ _)m
上野 うえの→こうずけ
豊臣秀吉公の息子ではありません。 文禄・慶長の役に肥前名護屋城で秀吉はいましたし、これは、淀殿は儀式か何かによる性交渉で秀頼の誕生が確定したのです?!m(_ _)m
安土城を焼失させた人物は一体誰なんだろうか? もし、残っていたら井伊直政の居城になるか?それとも天領として幕府直轄になるかロマンがありますね。 エスパー小林さんにお伺いたいものですね。m(_ _)m
淀君と乳姉妹の大野治長がホントの父親だとの説ありますね。秀吉が150cmのこの時代でもとても小柄なのに、大野治長は180cm超えの大男、秀頼も190cm位の体格だったという。淀君も当時とすれば大女だった。
僧侶から還俗して、戦国武将の仲間入りを果たしたけど、室町幕府は、すでに弱体化していて、世の中の動きがよくわからなくなっていった。 彼は本当はかわいそうな人だけど、正直、紙と筆による手紙で、信長包囲網を形成しようとした。 最後は豊臣秀吉の御伽衆で、余生を全うしたけど。 でも自分は、尊敬できる人物とは言いがたい。政権にしがみつきすぎて、周りの力がないと生きていけない。 ただ和歌や蹴鞠、能等の芸術には才能を見いだしていたのかも? m(_ _)m
二つコメントが一緒に出ている。 手違いです。ごめんなさい。 m(_ _)m
猛攻もさることながら、兵糧攻めが城方にとっては一番大変ですね。他にも水の手を絶たれることは、生死にかかわることです。 浅井亮政3代の城、対に落城しましたが、亮政が長生きしていたらどうなったでしょうか? m(_ _)m
[優秀な天下人=豊臣秀吉❳、と俺の頭に擦り込まれてる(笑)
三好三人衆の横暴で、亡くなりましたが、もう室町幕府が終わりに近づこうとしている幕開けですね。どんなに義昭の力が口先だけの生涯だったかよくわかりますね。m(_ _)m
石垣だけでも、保存されている。 過去の、🏯天守閣は、きっと想像するだけですごかったと思います。 天守閣の現存してあるのは、窓だけでも作りが違います。 ロマンをかきたてられます。 m(_ _)m
大坂城の女城主の淀殿。 徳川家康公の言うように、大阪城から退去していれば、命の保証は免れ、畳の上で死ねたのに? 豊臣家を守る意地があるのは分かる。 高台院北政所おねの言うように、豊臣家は一代で店じまいし、徳川家にすべて任せたら何とかなっただろうに? 秀頼は秀吉の子というがそれは違うと思う。m(_ _)m
この足利義輝は、剣豪将軍としての異名を持ち、武勇肌の豪傑だったと思われます。この人がもっと長生きしていたらと思うと正直惜しまれます。 この将軍は誰が刀の師匠だったのでしょうか? やはり三好三人衆や松永久秀等は、邪魔な存在で云うこと聞かなかったからでは無いでしょうか? そして怯れていたのかもしれません。 m(_ _)m
🏯高石垣は、ロマンがある🏯城ですね。 生駒親正が築城した讃岐の丸亀城も、石垣が高い。あの天守閣が、もう少し屋敷などがあったらと思うと、行ったかいがあるという。m(_ _)m
足利義政以降の将軍は、短命な方が多いです。例えば、お酒に飲まれすぎて身体を壊して亡くなった方が多い。 政治的にも、三管四職の大名の力を借りないと将軍としての権威は飾り物に過ぎなかった。かわいそうな方々ですが、これは時代の流れでしょう。 豊臣秀吉の天下統一をまたないと権威回復はさすがに難しかった。 まともに、足利将軍を支えようとするものがいなかったのも事実なんですよ。m(_ _)m
いい建造物の城だぁ。権力とは言え、こんな城や寺社、仏閣がいっぱいある日本。
愛姫は、利口な女性として知られています。生涯を政宗公に尽くして生涯を全うしました。 戦国武将の女性史でも、知名度があるので、他の書籍を調べてみたらいかがでしょうか? m(_ _)m
五郎八姫と書いて「いろはひめ」と読みますよ😅
すごくたくましく智略のある女性がいたんですね。男顔負けですね。かの立花宗茂の妻の誾千代も武勇に優れた女性と言われています。九州の女性は、男勝りが多いのでしょうか? そんなことはないと思うけど、お家を守る役割が彼女達を奮い立たせたのですね。m(_ _)m
中国地方最大の戦国武将毛利元就公の正室ですが、NHK大河ドラマ毛利元就で、女優の富田靖子さんが好演していました。元就公は、彼女を深く愛している描写が画かれていました。 早くなくなりましたけど、知勇備わった武将に育て上げたのも事実。外交と政略結婚で地盤固めは大したものです。惜しい女性を亡くしましたね。 m(_ _)m
申し訳ございませんが、この画像、江戸時代の着物ですから、室町時代の時代考証とは、かけ離れていますね。 室町幕府の将軍家の正室や側室については、なかなか分からない部分が多いと思います。 もし、差し支えなかったら、山名宗全の正室を取り上げてください。m(_ _)m
夢があって いいよね。
足利義澄、足利政知の次男、かの堀越公方と呼ばれた人だけど、義澄公は茶々丸の横暴で北条早雲に攻められたのではなく、平穏無事でよかったけど、お飾り将軍でしか無かった。 権威は地に落ちていて、他のものと手を組んでも同じことであるのは間違いない。堀越公方の一族も短命に終焉しましたね。m(_ _)m
クリスマスは一人です。
犬山城は国宝としても有名ですね。 m(_ _)m。 自分は関ヶ原にゆかりある大垣城とか、北条今川の城である興国寺城などを取り上げてもらえませんか? 何卒お願いします。 他にも、徳島県出身の自分は白地城なんかも知りたいです。 m(_ _)m
何度も再縁して子供を作って、生涯を終える。それが戦国時代に生まれた武将の嫁の生き様だったけど、面白い面白くないに関わらず、安定はした暮らしであったと思います。 福島正之の乱行は許す事できませんが?ただ家康公は外様の福島正則を改易をさせるつもりがバリバリにあったと思います。これを息子の正之のせいにはできかねます。m(_ _)m
こんなお掘り、何か被せたら立派な落とし穴になるよ。 ある九州のお城で、土地に落とし穴をたくさん作った城主がいたと書いてあったことを思い出しましたわ。 落とし穴に、入ったらわどわされるし、混乱をもたらしますよ。 m(_ _)m
管領の細川家では、讃岐や阿波の守護をしていたせいか、阿波公方とよばれる人達も存在する。徳島県に縁のある方が歴史に登場するのは好ましいけれど、基盤がかなり弱い政治で、あったことは言うまでもない。応仁の乱以後、名前は違うけれど観応の擾乱的なものと同じだよ。 m(_ _)m
三管領の筆頭といわれる細川氏の横暴が、将軍を脆弱されるきっかけになったんですね。守護職も少しずつ没落の道をたどっていった。でも、細川政元も暗殺されたという。もう将軍はお飾りで、義輝公がまだコマシな方ですよ。彼は、武勇がありますからね。 義尚以降は、ひよわな口だけのお飾り将軍ばかり。権威だけは振りかざしています。m(_ _)m
復帰は一度な!
この人は、世の中が戦乱に明け暮れただけでなく、酒毒でやられてしまったのです。政治的にも、思うようにいかないので何もかもが嫌になってしまったのです。 かわいそうな将軍でしたね。 m(_ _)m
いや、いくら何でも大天守のイラストは城に詳しくないヒトの誤解を招く。 土から成る→城 戦国当時の関東の城には白亜の天守建築は存在しなかったです。本拠地の小田原城にさえも。
芳春院まつ。前田利家公の奥方としても有名ですね。 しっかり者で、家を切り盛りして加賀前田家100万石を築いた人です。実際は加賀能登越中の3カ国ですが、あの一向一揆で敵だった者達を降伏させて、温和な、政策で統治しましたね。 宗教がらみの領民のおそろしさを痛感したことでしょう。まあ、この頃は本願寺も抑制されて少しは静かになったのですが、豊臣秀吉が天下を統一して、五大老の一人として、豊臣政権を支えましたが、秀吉公の死と利家公の死。そして、家康公の人質として江戸に行き、長く上屋敷で過ごしたのです。 徳川家康公の人質第一号ですが、さすがの家康公も只者ではありません。 人質でも暮らしやすかったと思います。m(_ _)m
朝倉義景・・・信長の義弟だったのにな・・・
信長の中身は、濃姫だった ?
今川氏真の正室として、彼に長年連れ添った方ですね。ある意味ツライ思いしたけれど、氏真公と添い遂げたことは特筆すべきです。 彼女も時代に翻弄されましたけど、別の意味では、いい人生だったかも。 戦いの、連続で気が治まることもなかったのですか、屋敷の上で畳で死ねたことは運がよかったのかも? m(_ _)m
応仁の乱の終結後、日野富子は、京都の治安を治すため、内乱状態の京都に関所を設けて、通行銭を取っています。 そうしないと、ろくでもない輩がたくさん入ってきて、再び内乱の危機になるのです。管領守護職からお金を出させることにより、将軍の権威の一筆を買うやり方で、将軍家の財政を豊かにする事をしました。そのお金に汚いやり方が、悪女と言われる原因になったのですよ。 m(_ _)m
奥平家は、徳川家康の娘を娶った縁で譜代大名としての地位を確立しています。そして、奥平家には忠義者が多い。特に鳥居強右衛門が有名ですね。 m(_ _)m
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日本人の 建築·土木技術と美的センス
亀姫の生まれ変わりは市川亀治郎さんこと市川猿之助さん、嫡男の奥平家昌の生まれ変わりは香川照之さんです。二人は、幕府に背き京都の六条河原で弟子と共に耳と鼻削ぎの刑を受けた、日蓮宗の日経上人の生まれ変わりの公安OBの坂本に陥れられた😨🤢前世の本人やその一族の所業や他人の恨みは今世までも引っ張られるのだ😥
宇都宮の吊り天井
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徳川の世の中になって、こんな浪人ぐらしをしていた人は多々あります。 時世がその人を必要としていたかどうかに関わります。 m(_ _)m
足利義昭の子孫は散らばっていますね。足利を名乗らずに他の人の養子に入るなどして、でも当時の家柄重視してみたら、申し分ないことと思います。明治維新や西南戦争他のなどに活躍の場を子孫は見いだしていたのですね。うれしいことだと思っています。 m(_ _)m
一族、残党が、足利を名乗っいますから、子孫はかならずいるはずだと思いますよ。 この人達は、室町幕府の終焉を経験した人ですが、もう時代が、室町幕府そのものをいらないと思ったのですね。 m(_ _)m
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京都所司代といえば、板倉勝重が有名ですが、この所司代は京都の中でも、奉行としての役割を兼ねています。朝廷のことの交渉や、典礼作法等の役割を担っていて、役回りとしては難しい役目であり、やりがいのある役職です。 朝廷を抑え込む役割も果たしています。それを任されることは相当の信用がないとできませんよ。奥平信昌公はそれに答えていたのですね。 m(_ _)m
上野 うえの→こうずけ
豊臣秀吉公の息子ではありません。 文禄・慶長の役に肥前名護屋城で秀吉はいましたし、これは、淀殿は儀式か何かによる性交渉で秀頼の誕生が確定したのです?!m(_ _)m
安土城を焼失させた人物は一体誰なんだろうか? もし、残っていたら井伊直政の居城になるか?それとも天領として幕府直轄になるかロマンがありますね。 エスパー小林さんにお伺いたいものですね。m(_ _)m
淀君と乳姉妹の大野治長がホントの父親だとの説ありますね。秀吉が150cmのこの時代でもとても小柄なのに、大野治長は180cm超えの大男、秀頼も190cm位の体格だったという。淀君も当時とすれば大女だった。
僧侶から還俗して、戦国武将の仲間入りを果たしたけど、室町幕府は、すでに弱体化していて、世の中の動きがよくわからなくなっていった。 彼は本当はかわいそうな人だけど、正直、紙と筆による手紙で、信長包囲網を形成しようとした。 最後は豊臣秀吉の御伽衆で、余生を全うしたけど。 でも自分は、尊敬できる人物とは言いがたい。政権にしがみつきすぎて、周りの力がないと生きていけない。 ただ和歌や蹴鞠、能等の芸術には才能を見いだしていたのかも? m(_ _)m
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猛攻もさることながら、兵糧攻めが城方にとっては一番大変ですね。他にも水の手を絶たれることは、生死にかかわることです。 浅井亮政3代の城、対に落城しましたが、亮政が長生きしていたらどうなったでしょうか? m(_ _)m
猛攻もさることながら、兵糧攻めが城方にとっては一番大変ですね。他にも水の手を絶たれることは、生死にかかわることです。 浅井亮政3代の城、対に落城しましたが、亮政が長生きしていたらどうなったでしょうか? m(_ _)m
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🏯高石垣は、ロマンがある🏯城ですね。 生駒親正が築城した讃岐の丸亀城も、石垣が高い。あの天守閣が、もう少し屋敷などがあったらと思うと、行ったかいがあるという。m(_ _)m
足利義政以降の将軍は、短命な方が多いです。例えば、お酒に飲まれすぎて身体を壊して亡くなった方が多い。 政治的にも、三管四職の大名の力を借りないと将軍としての権威は飾り物に過ぎなかった。かわいそうな方々ですが、これは時代の流れでしょう。 豊臣秀吉の天下統一をまたないと権威回復はさすがに難しかった。 まともに、足利将軍を支えようとするものがいなかったのも事実なんですよ。m(_ _)m
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愛姫は、利口な女性として知られています。生涯を政宗公に尽くして生涯を全うしました。 戦国武将の女性史でも、知名度があるので、他の書籍を調べてみたらいかがでしょうか? m(_ _)m
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中国地方最大の戦国武将毛利元就公の正室ですが、NHK大河ドラマ毛利元就で、女優の富田靖子さんが好演していました。元就公は、彼女を深く愛している描写が画かれていました。 早くなくなりましたけど、知勇備わった武将に育て上げたのも事実。外交と政略結婚で地盤固めは大したものです。惜しい女性を亡くしましたね。 m(_ _)m
申し訳ございませんが、この画像、江戸時代の着物ですから、室町時代の時代考証とは、かけ離れていますね。 室町幕府の将軍家の正室や側室については、なかなか分からない部分が多いと思います。 もし、差し支えなかったら、山名宗全の正室を取り上げてください。m(_ _)m
夢があって いいよね。
足利義澄、足利政知の次男、かの堀越公方と呼ばれた人だけど、義澄公は茶々丸の横暴で北条早雲に攻められたのではなく、平穏無事でよかったけど、お飾り将軍でしか無かった。 権威は地に落ちていて、他のものと手を組んでも同じことであるのは間違いない。堀越公方の一族も短命に終焉しましたね。m(_ _)m
クリスマスは一人です。
犬山城は国宝としても有名ですね。 m(_ _)m。 自分は関ヶ原にゆかりある大垣城とか、北条今川の城である興国寺城などを取り上げてもらえませんか? 何卒お願いします。 他にも、徳島県出身の自分は白地城なんかも知りたいです。 m(_ _)m
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三管領の筆頭といわれる細川氏の横暴が、将軍を脆弱されるきっかけになったんですね。守護職も少しずつ没落の道をたどっていった。でも、細川政元も暗殺されたという。もう将軍はお飾りで、義輝公がまだコマシな方ですよ。彼は、武勇がありますからね。 義尚以降は、ひよわな口だけのお飾り将軍ばかり。権威だけは振りかざしています。m(_ _)m
復帰は一度な!
この人は、世の中が戦乱に明け暮れただけでなく、酒毒でやられてしまったのです。政治的にも、思うようにいかないので何もかもが嫌になってしまったのです。 かわいそうな将軍でしたね。 m(_ _)m
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芳春院まつ。前田利家公の奥方としても有名ですね。 しっかり者で、家を切り盛りして加賀前田家100万石を築いた人です。実際は加賀能登越中の3カ国ですが、あの一向一揆で敵だった者達を降伏させて、温和な、政策で統治しましたね。 宗教がらみの領民のおそろしさを痛感したことでしょう。まあ、この頃は本願寺も抑制されて少しは静かになったのですが、豊臣秀吉が天下を統一して、五大老の一人として、豊臣政権を支えましたが、秀吉公の死と利家公の死。そして、家康公の人質として江戸に行き、長く上屋敷で過ごしたのです。 徳川家康公の人質第一号ですが、さすがの家康公も只者ではありません。 人質でも暮らしやすかったと思います。m(_ _)m
朝倉義景・・・信長の義弟だったのにな・・・
信長の中身は、濃姫だった ?
今川氏真の正室として、彼に長年連れ添った方ですね。ある意味ツライ思いしたけれど、氏真公と添い遂げたことは特筆すべきです。 彼女も時代に翻弄されましたけど、別の意味では、いい人生だったかも。 戦いの、連続で気が治まることもなかったのですか、屋敷の上で畳で死ねたことは運がよかったのかも? m(_ _)m
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