この家畜人ヤプーは、皇室の天照大御神から白人であり、それに遣える皇室自体が雪隠としての、幸せを持ち、 菊の御紋は肛門の象徴としているくだりを読んだ時、国粋主義者から沼正三氏は狙われるのではないかとすら思い、 コレを戦後すぐに出版したことの凄さと、皮肉に私は驚いてしまいました。
幻想小説、幻想って言葉が好き😌 たそがれの国ってタイトルもいい感じ😊 表紙の絵の毒々しい、ヒッチコックの映画みたい 私もジャケ買いをした事あります CDで、サラ・ブライトマンのめちゃくちゃ美しいクラシック 中身も素晴らしかった
服こそ人なり、という言葉がありますが、本の装丁やCDなどのジャケットデザインは重要ですね。あんがいはずれないものです。
澁澤さん、大好きです。犬狼都市、幽霊船などの短編小説も良かったです。マニアックだけど自分酔いしていない文章がグッドです。
はじめまして~💗 最近、サンデグジュベリの美しい言葉に懐かしい思いでいたら人間の大地で語っていたこのチャンネルに出会いました そしたらカラマーゾフ、スメルジャコフ分身 わあ~ほんまにそうですね 今日ゆっくり全部動画見たいです
コメントありがとうございます。サンテグジュペリは大好きな作家です。「人間の土地」は世界でいちばん美しい本といっていいと思います。
@@ドストエフスキーの肖像 フランス語って響きが美しいし、街並みも女性も子供も美しい もしかしたら訳も日本語では表現出来ない美しい言葉とかあるのかな?と最近思ってきました 今、風呂に入りながら語ってる動画見てました ドストエフスキーに昔ハマってました 初めて読んだのは、貧しい人々?だったかな タイトルに惹かれて読みはじめました
確かに、英語訳はないと思います。もしあればイギリス人(ヨーロッパ人)は、どうゆう反応をするでしょう?セッチン、侏儒は無いでしょうが、似た様なことを黒人にした訳ですから。
誤解されないようにしてもらいたいのは、家畜人ヤプーの世界はもちろん仮想世界ですが、白人が創造した世界というよりは、日本人が創造した世界だということです。あくまでも主導権を握っているのはヤプーである日本人であり、支配者である白人を祀りあげているのは日本人でなければならない、と作者が考えているということです。そういう意味で、かつてヨーロッパ人が黒人にたいして創りあげた奴隷制度とは本質的に異なります。
貴方は「カラマーゾフの兄弟」をよんではいない。
俺は外国人の褐色人だけど。正直、この本は凄く面白いと思ってる。
十年前ぐらい前にフランス語に翻訳された家畜人ヤプーがサド賞を受賞したのが驚き
それは知らなかった。フランス人がこの本を読んで何を思うのでしょう?
家畜人ヤプー検索してて、家畜人ヤプーの回と今回見ました。 澁澤龍彦も好きだから、チャンネル登録しました☺
日本人の劣等感って重要なテーマですね。
コメントありがとうございます。 海外の反応というたぐいのTH-cam動画がけっこうあがってますよね。あれなんかも日本人の劣等感の裏返しのあらわれかなと思います。
思想らしいのが、初めのページにあって、シビヤだなと感じました。
コメントありがとうございます。サンテグジュペリは私がいちばん好きな作家です。そして「人間の土地」は私がいちばん好きな彼の本です。「人間の土地」の冒頭に書かれた彼の思想は、職業パイロットとしての彼の体験から生まれた思想だと思います。その思想に導かれるままに、サンテグジュペリは若くして地中海の空に消えてしまいました。
私は石ノ森章太郎先生の漫画版しか読んだことはありませんが、特にマゾヒストでなくともあまり一般的ではない未来世界の描かれ方や思い切ったアイデアに魅了された覚えがあります。私自身は、こんな世界でどう生きればいいのか、軽く絶望感を感じてたような気もしますが、たまにフィクションで見られる悲観的感覚を楽しんでいたような感覚です。これもマゾヒズムなのでしょうか? たしかにこの作品を日本人以外の人間が読んだらどう感じるのか、興味深いと考えてしまう私は日本人なのでしょう(笑) 翻訳されてたりはしないのかな。
コメントありがとうございます。石森版「家畜人ヤプー」はすばらしいです。私もじつはマゾヒズムの本当のところはよく分かりません。石森章太郎のすごいところは原作を超越して独自の未来世界を創り出しているところだと思います。たいして沼正三版の「家畜人ヤプー」のすごいところは、その細部にわたる緻密な設定です。エグイ表現も多々ありますが、一読してみることをお勧めします。
以外に思われるかも知れませんが、私の座右の銘は《Всё Хорошо Всё》なんです。このたった3つの単語の中にドストエーフスキイの思想のエッセンスが詰め込まれていると感じています。大学生の時『悪霊』を読んで以来ずっと頭の中で響き続けている言葉なんです。 キリーロフとシャートフはスタヴローギンに弄ばれた人物です。片やスラヴ思想めいたものを与えられ熱心に信じました。言うまでもなくシャートフです。キリーロフはご存じのように、アンチキリストの思想を与えられ、それを熱心に信じた。 どうしても何処に書いてあったのか分からないのですが、スタヴローギンがキリーロフに「貴方はキリストを信じたならば熱心なキリスト教徒なったでしょうね」と言ったような事を書いてあった様に記憶しているのですが、私の記憶違いでしょうか? キリーロフの思想は、キリーロフがキリストを否定しなければ、後の「カラマーゾフの兄弟」のマルケルの発言と一致します。後「未成年」ドルゴルキイ老人にも同じ様な感じを受けます。
スタブローギンがキリーロフにそういうことを言ったかどうか、今すぐには分からないのですが、シャートフがキリーロフに「きみは実に良い人間だなあ。もしももしもきみが無神論的な思想を捨てさえしたならば、きみはほんとうにすばらしい人間になるんだがなあ!」というような意味のことを言った箇所はありますね。これは彼らが最後に顔を合わせたときのことだったと思います。たしかにキリーロフは本来じつに誠実で、いわゆる人間の鑑のような人物なんですよね。ところがこういう誠実な、まちがいがない人物にかぎって「自由」という名の罠に落ちてしまう。イワンもまたそういう人物だったと私は思っています。ところで私はロシア語が読めないので、その言葉の意味を教えていただけると幸いです。
@@ドストエフスキーの肖像 そうですか、シャートフでしたか。完全な私の記憶違いですね。言っていることは殆ど同じですものね。どうりで、スタヴローギンの話している所を探しても見つからなかった訳ですね。有難う御座いました。 最初に謝っておきます。別に私は皮肉を言う心算は全くないのですが、大学時代にゼミの先生(私にとっては恩師です)に「やっぱり最後は原語で読まなければ、本当のことはわからないよ。」と言われました。先生は(もう卒業をまじかに控えた時でした)「僕のロシア語の授業を受けに来ないか」とお誘いを受け、卒業後2年間ロシア語の授業を無料で受けさせてもらい、教科書まで先生から頂きました。併し乍ら、その時にはロシア語をものにすることは出来ず、先生には申し訳ない気持ちで一杯でした。その気持ちがずっと私の体内でくすぶっていたのと、原語で読みたいという欲求が強くなり、子供達も手を離れ独り立ちしてから、ロシア語に再挑戦することにし、59歳から2年間オンラインでキルギス人の先生にロシア語を教わり、ある程度までは読めるようになりました。 前置きが長くなってしまい、すいません。私が書いたロシア語は《フショー ハラショー フショー》と読みます。意味は直訳すると「全てがいい、すべてが」となります。ロシア人に聞いても「ドストエーフスキイのロシア語はわかりずらい」そうです。《Что》(シュトー)=英語のwhatに当たる疑問視なのですが、これが関係代名詞の役割も果たしていて、ドストエーフスキイの文章は《Что》で長々と続くものが多いです。何処へどう繋がっているのか、分からなくなり、本当に難しいです。チェーホフの短編などは私程度の読解力でもある程度は読めるのですがね。 長くなってしまいましたが、もう書いてしまったので、そのまましておきます。
@@アリョーシャ-x3j ドストエフスキーのロシア語が分かりずらいというのは、よく耳にします。それはもしかしたら、彼が一時期、必要に迫られて、口述筆記という手法に頼っていたためかもしれません。勝手な想像ですが、その口述筆記という手法が、後の五大小説(特に「白痴」や「カラマーゾフの兄弟」)に見られる演劇的作風の確立につながったのではないかと私は考えています。 それにしても還暦を前にして、ロシア語に再挑戦というのはすごいですね!
スメルジャコフがてんかんになったきっかけが、聖書のことでスメルジャコフがなにか言ってグリゴーリィがスメルジャコフに手をあげたこと、っていうのがありましたよね。 てんかんのことを知ったフョードルのスメルジャコフへの対応が変わった、っというのもすごく気になるところなのですが、話がそれちゃうので。 スメルジャコフの半分を作ったのはグリゴーリィだと思ってしまって二回目読んだ時グリゴーリィ気にしながら読みましたが、グリゴーリィは黒、っていえるほどでは無く。 視点をかえて何度でも読みたくなります。
私がこの本に一気に引き込まれたのは、序盤の会合でフョードルが自分で道化を演じてしまうことについて語る部分です。私は実際に言動にはしませんが気持ちはすごく分かる。上手く説明できませんが、うわべだけのその場をこわしたくなる気持ちが分かる。そしてそれに対するゾシマ長老の言葉にまた更に、そうなんですそうなんです、と。
まったく同感です。若いころの私はまさしくそういう気持ちを持っていました。
はじめまして。 日本で一番ドストエフスキー研究が盛んな研究室のある大学院はどこが挙げられますでしょうか?教えていただけると幸いです。
mu-donさん、すいません。わたしは個人的にドストエフスキーについて探求しているものなので、そこらへんの情報はもっていません。実際、わたしはロシア語も読めませんし、ドストエフスキーに関する研究書みたいなものも、ほとんど読んだことはありません。ただ、わたしにとって、ドストエフスキーという作家が唯一無二の存在であることは確かです。
返信ありがとうございます。 そうなんですね!てっきり専門的に研究しておられる方だと思い込んでいました。声や喋り方がどことなく亀山郁夫さんに似てもいたので、、笑
黒澤明の作品が上手いですよ。長過ぎるけど。
コメントありがとうございます。黒澤が映画化しているとは知りませんでした。
ドストエフスキーってニーチェの本読んでなかったんですね、ちょっと意外
「ツァラトゥストラ」が発表されたとき、すでにドストエフスキーは亡くなっていたと思います。
生身のドストエフスキーがどんな男だったかと謂うと、ドミートリィであった訳ですが、世界文学には、ドストエフスキーのような人物が存在する。 フランスの象徴派詩人のアルチュール・ランボーです。 15歳で三百年に一人の天才と謳われた『酔いどれ船』の作者です。 この偉大なる詩人は、ヴェルレーヌ以外に友は無く、詩人と謂う職業であった事も無い。後のヴェルレーヌ、マラルメ、ヴァレリイ等が高く評価したからに過ぎない。 近代文学史では、ランボーとドストエフスキーが時として一緒に論ぜられる場合が有ります。
ドストエフスキーにしろランボーにしろ、仮に自分の隣人としていたとすると、正直たえられないでしょうね。でも、彼らのような人物がいない世界もまた非常につまらない世界だと思いますが。
@@ドストエフスキーの肖像 19世紀末のパリに「火曜日の会」という芸術家達のサロンが有りました。ヴェルレーヌはランボーを連れて行くのですが、ランボーは他の詩人の朗読に「クソくらえ!!」と悉く拒否します。ランボーは部屋からつまみ出されますが、帰りに出口で待ち構えていて、仕込み杖で殴りかかったりします。全人類から拒絶されるような状態です。この時サロンに参加していた画家のルドン、モロー、ミレー、音楽家のドビュッシー、ワーグナー等を今日「象徴派」と呼んでいるのは間違いです。象徴派詩人のランボー、ヴェルレーヌ、マラルメが参加していた為、そう呼ばれましたが、ランボーは誰からも理解されません。 ドストエフスキーも純粋理性で行動した後、刑務所行きになります。正しいと思って行動するのに何かが間違っています。政治にも多くの誤謬が有ります。だが、政治は小さな事です。大きな問題は「神」に有る。 ランボーは作品に「この世はキリスト教より先には進まない」と書いています。
@@waterclear6529 さん ドストエフスキーが純粋理性で行動できるとは、わたしには思えませんが。
@@ドストエフスキーの肖像 嘗て、秋山駿は「ドストエフスキーはカントを読んでいた」と言っていますが、彼は常に貧乏人や不遇な者の味方です。劣等種族の血筋です。政治は小さな事ですが、無限に大きな問題に突き当たるには、どうしても「神」と対峙しなければなりません。イエスがドストエフスキーにどんな答えを出したのか、ということです。
人間は何故存在するのか、存在の秘密を長い間握っていたのは宗教でした。埴谷雄高は、ロシアには打ち降ろせばかちんと鳴る実体が有る、ロシア正教の歴史が有るのが羨ましい、と述べています。だいたい日本には埴谷雄高が理解されないことに絶望する。日本の歴史上初めて誕生した世界的思想家で有るにも拘わらず、理解されない。昔、秋山駿が文芸誌の司会で「埴谷雄高の『死霊(シレイ)』には、宇宙の始まりに向かう意思が有るな」で始まった。埴谷文学の意義を理解していた秋山駿らしい司会ぶりだった。ドストエフスキーや埴谷雄高が、「神」とどう関わっているかを理解する現代人は皆無だと思える。それがとても残念です。
宗教と人間というのは切っても切れない関係にあると思います。極端ないいかたをすると、人間と動物のちがいは、宗教を持つかどうかによると。
女出入りに関わってムルソーは人を殺します。理由は「太陽のせいだ」19世紀のドストエフスキーと象徴派を20世紀に継承した作品です。ムルソーは正しい。サルトルはカミュを「反抗的な人間」と呼んでいる。更にドストエフスキーの形而上学を「あの飛躍」と揶揄している。象徴派に対してもボードレールのダンディズムを「失敗である」とし、ランボーの「見者の詩法」にも「面白い、そんな事が出来るならやってもらおう」と揶揄している。サルトルは象徴派やドストエフスキーを継承していないのです。ニーチェを高く評価するサルトルは、主著『存在と無』で「存在とは対自存在である」事を弁証したに過ぎない。神に一歩でも半歩でも近づこうとした象徴派とは異なるのだ。 ドストエフスキーは、世界文学の流れのなかで、象徴派の仲間です。
カミュがドストエフスキーに多大な影響を受けているのはまちがいないと思います。しかし、これはわたしの勝手な想像ですが、カミュはドストエフスキーのほんとうに怪物的な側面には気づいていないような気がします。
生身のドストエフスキーがどんな人間だったかと謂うと、ドミートリィだった訳で、では三男のアレクセイは生身の人間では誰かと謂うと、ワーズワースです。では、イワンはどんな作家なのかとなると、此は難しい。サルトルのようだが其はサルトルを褒め過ぎだ。近代文学系の作家達の間では、サルトルの実存哲学は小さな才能でしかない。 発狂したニーチェを高く評価した哲学者サルトルは、読者を選んでいない。酔い痴れながら小説を書いているドストエフスキーには、現実を生きる者と死んだ者との邂逅する名場面が多く有る。イワンはカフカのようでも有り、カミュのようでも有る。秋山駿はイワンをして「墓場の思想」と呼んでいますが、ムイシュキンに対するイポリート、そしてスタヴローギンとフェージカは現実社会を生きているのだ。
コメントありがとうございます。 「墓場の思想」というのは、たしかに的を射た表現だと思います。イワンの思想というのは、いってみれば「真実」を限りなく追及した思想だとわたしは考えています。「真実」を限りなく追及した結果、イワンがたどり着いたのが、限りなく高い塔の上で、いわばイワンはバベルの塔の上に取り残された最後の人間という役どころかと思います。バベルの塔の上に取り残されたイワンはついにどこにも行くことができずに、破滅するしかないのでしょう。では、作者であるドストエフスキーはどうかというと、彼はおそらく「真実」を知っているくせに、自らは塔の上に上ってゆくことをしない人間だと、わたしは考えています。
ドストエフスキーは古典の作家、過去の偉い人ではありません。常にリアルタイムを生きているのです。私は、イエスを仲間だったと思います。宗教のキリストではなく、無惨に死んだ腸の塊の死骸のイエスです。イエスは永遠者若しくは神と呼ばれた者とは逢ってはいなかったのです。イエスすら辿り着けない無限大の世界に辿り着けるのは、スタヴローギンである、とドストエフスキーは書いているのだと思います。
@@waterclear6529 さん、チホン神父との対話の章で、ドストエフスキーはスタブローギンに「自分は善も悪もない人間だ」といわせていますね。しかもスタブローギンは、単に思想的な意味だけではなく、行動者としても「善も悪もない」人間として設定されているわけです。ある意味、スタブローギンはドストエフスキーにとって、ムイシュキンやアレクセイ以上の理想の人物像だったのかもしれません。
ドストエフスキーは酔しれ乍小説を書いている。ムイシュキンの前に「将軍」を置いて、「将軍」は涙乍に荒唐無稽な思い出話をする。スタヴローギンの前には懲役人のフェージカを置く。ムイシュキンは軈て、アレクセイとなって最後の長編小説に登場する。だが、ドストエフスキーは並みの小説家ではないから、ムイシュキンの前に「イポリート」も置いています。埴谷雄高は一切イポリートを評価する文章を書いていませんが、秋山駿は「天才とはとんでもない者だ」として、イポリートを最大限に評価しています。バカで身持ちは悪いのに、この世の全てを考えるのです。その様な思考をした人間として秋山駿はドストエフスキー以外にランボーとパスカルを挙げている。
「カラマーゾフの兄弟」のアリョシャはムイシュキンの完成形だとわたしは思っています。アリョシャもまた主人公でありながら、主人公らしくない人物ですよね。ただ、よく誤解されているように、このふたりはたんなる善良な人物ではないとわたしは考えます。このふたりの共通の性格として、猜疑心の深さと直観力の鋭さをあげることができます。このような特質は必ずしも「無条件に美しい」人間の性格としては、ふさわしくないような気がします。それでもドストエフスキーはこの二人の青年に、このような特質を授けた。なぜか? と、わたしは数十年来考えつづけてきました。ひとつの解答として、ふたりは探偵として物語を解明する役割を担っているのかもしれません。この二人の前に出ると、人々は自らの内面を容赦なくさらけ出してしまうのです。ムイシュキンの前の将軍たちのように。
キリーロフの語りは何十回も繰り返し、繰り返し読んだものでした。他にはスタヴローギンの語りも繰り返し読んだものでした。埴谷雄高が「小説は形而上学として可能である」と述べている訳ですね。秋山駿は、ドストエフスキー、ランボーと共に並べているパスカルが真夜中の思想家ですね。問題は一つだけです。神とは何か!? ドストエフスキーの言葉は迫真に迫る!! ドストエフスキーは誰の真似をしたものではない、自分で考えたから、自分の言葉で語る。私の胸の奥の奥迄迫る。
おそらくドストエフスキーくらい疑い深い人間はいないのだと思います。とてつもない猜疑心の深さによって、ドストエフスキーは人間の心の奥底深く切り込んでゆきます。人間の心の奥底深く、ということは、とりもなおさずドストエフスキー自身の心の奥底深く、ということでしょうが。
生活が落ち着いてから書かれた唯一の長編小説ですね。イワンを「墓場の思想」と呼んだのは若い頃の秋山駿だったかな? 何しろ昔の事なので記憶が定かではない。世界文学の最高傑作と呼ぶ方も多いでしょう。
まちがいなく世界文学の最高傑作です。「カラマーゾフの兄弟」にはじつにさまざまな小説の原型が詰め込まれています。次兄イワンの思想が「墓場の思想」といわれるゆえんは、おそらく彼の思想が空想的なものであり、行動に結びつかないからでしょう。父フィオドルの殺害犯人は誰だったのか? 空想的な犯罪の犯人としては、イワンがあげられるのでしょうが、実行犯としてはちがう。そこらへんを見抜いているのは三男アリョシャだけであり、だからこそイワンはアリョシャの「犯人はあなたではない!」という宣告を恐れるのでしょう。
私は、一連のドストエフスキー作品を読みながら、もう一方では、ボードレール、マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌ、ヴァレリイ、ポー等を読んでいました。象徴派とドストエフスキーは両輪のように読み進めていました。当時は、近代文学の開祖と思っていたし、以降のカミュ、ジッド、カフカも仲間だと思っていました。 現代は……、衰退しました。其は、ドストエフスキーや象徴派の「偏執狂」が人間の頂点なのだと思います。
わたしはドストエフスキーという作家は一種の怪物だと思っています。それも二つのちがった意味で、そう思っています。ひとつは、おっしゃるように近代文学の開祖として、開祖にして最大の作家として。もうひとつは意識の怪物という意味で。瀬川さんが列記されたボードレール等の作家たちは、芸術性の高い作品を書いた作家として、天才だとは思いますが、ドストエフスキーとはまったく異なった人種ですね。カミュについては、ドストエフスキーに強く影響を受けた作家ですね。しかし、ドストエフスキーほどには人間の意識を深堀してはいないと思います。
昔、ドストエフスキーの長編、中編は全作品読みました。『悪霊』は最も難解な作品だと思います。大昔、吉祥寺の埴谷雄高を訪ねたりしました。埴谷さんはロシア語が流暢なので、「貴方、ゴーゴリを読みなさい」と言われましたが、私はロシア語は全く駄目ですから。ドストエフスキーの想像力に終わりは有りません。スタヴローギンが札を投げると、「よいしょ、よいしょ」と拾うフェージカ。『悪霊』の名場面です。ドストエフスキーには、現実社会に生きる者と、死んだ者の邂逅が有ります。ドストエフスキーの真骨頂です。
埴谷雄高氏に会ったことがあるとは! ちょっとびっくりです。どんな人物だったのでしょう。ところで、お札拾いの場面ですけど、たしかにおもしろい場面です。見逃されがちですが、ドストエフスキーの小説は案外こっけい小説的な場面が多くあります。たとえば「地下室の手記」などは、ある意味、純然たるこっけい小説といってもいいでしょう。ただ、おそろしいのは、そのこっけい小説をわれわれ読者が読み進めていると、ある時点で、それががらりと様相を変え、深刻な悲劇へと裏返ることです。喜劇と悲劇は現実の両側面だということを、ドストエフスキーくらい実感として知っていた作家はいないようです。
この動画は営利目的の動画ではありませんが、TH-cam規約の変更のため、6月からTH-cam側の判断で、広告が付くようになったようです。
どの作品が口述筆記でどの作品がそうではないのか、どうなんでしょう。でも、その速記者とドストエフスキーが結婚することになったのは面白いですよね笑
スメルジャコフに人間味を感じないのはおっしゃられているように、彼が精神を病んでいるからだという説は、私もそうだと思います。ドストエフスキーの描いた登場人物は、皆心を病んでいると言われていますね。スメルジャコフにあたりまえの人間的な要求をすることは、間違っています。精神疾患と言う病はかなりの重たい病気です。もしそのようなものがひとを殴りでもしたら、即精神鑑定を余儀なくされるでしょう。人間味を失うとはそこまで押しやられてしまったと言える状態で、これはその証左だと言えるのだと、私は思います。慎重に扱わなければ、仮にスメルジャコフだとすると、スメルジャコフの疾患はますます悪化して行き、彼は人間の根本をないがしろにされた、冒涜された人間に落ちて行きます。ドストエフスキー自身について言えば、彼自身も精神疾患で重い癲癇を発症していました。癲癇の発作が起こるたびに創作活動は中断され、練りに練った構想は何度となく頓挫し、執筆は最初からやり直さなければならないと言う、気の遠くなるような工程が繰り返されます。彼はひどくつらい執筆環境で生きることを余儀なくされます。彼のの担当者は、魂の限りを費やして書いたドストエフスキーの原稿を何度も何度も突き返し、書き換えしないと出版はさせないと言いました。その遣り取りは落命ぎりぎりの取り引きであり、壮絶なものであったと聞いています。この小説はこのようにして生まれています。
私にとってドストエフスキーは特別な作家です。それは好きとか嫌いとかいう以前の問題です。彼が重度の精神疾患であったかどうか、それはわかりませんが、一般的な人間とまったく異なった精神状態にあった人ではないかと、私は思っています。一種の精神的な怪物といっていいでしょう。おそらく彼くらい人間性の真実に近づいた人間はいないと思います。「地下室の手記」以後の作品において、ドストエフスキーは彼自身の分身を舞台の上に登場させました。スメルジャコフはその中でも最も不思議なキャラクターです。
同感です。カラマーゾフの兄弟を読んだ時に小説を超えていると感じました。
この家畜人ヤプーは、皇室の天照大御神から白人であり、それに遣える皇室自体が雪隠としての、幸せを持ち、 菊の御紋は肛門の象徴としているくだりを読んだ時、国粋主義者から沼正三氏は狙われるのではないかとすら思い、 コレを戦後すぐに出版したことの凄さと、皮肉に私は驚いてしまいました。
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澁澤さん、大好きです。犬狼都市、幽霊船などの短編小説も良かったです。マニアックだけど自分酔いしていない文章がグッドです。
はじめまして~💗 最近、サンデグジュベリの美しい言葉に懐かしい思いでいたら人間の大地で語っていたこのチャンネルに出会いました そしたらカラマーゾフ、スメルジャコフ分身 わあ~ほんまにそうですね 今日ゆっくり全部動画見たいです
コメントありがとうございます。サンテグジュペリは大好きな作家です。「人間の土地」は世界でいちばん美しい本といっていいと思います。
@@ドストエフスキーの肖像 フランス語って響きが美しいし、街並みも女性も子供も美しい もしかしたら訳も日本語では表現出来ない美しい言葉とかあるのかな?と最近思ってきました 今、風呂に入りながら語ってる動画見てました ドストエフスキーに昔ハマってました 初めて読んだのは、貧しい人々?だったかな タイトルに惹かれて読みはじめました
確かに、英語訳はないと思います。もしあればイギリス人(ヨーロッパ人)は、どうゆう反応をするでしょう?セッチン、侏儒は無いでしょうが、似た様なことを黒人にした訳ですから。
誤解されないようにしてもらいたいのは、家畜人ヤプーの世界はもちろん仮想世界ですが、白人が創造した世界というよりは、日本人が創造した世界だということです。あくまでも主導権を握っているのはヤプーである日本人であり、支配者である白人を祀りあげているのは日本人でなければならない、と作者が考えているということです。そういう意味で、かつてヨーロッパ人が黒人にたいして創りあげた奴隷制度とは本質的に異なります。
貴方は「カラマーゾフの兄弟」をよんではいない。
俺は外国人の褐色人だけど。正直、この本は凄く面白いと思ってる。
十年前ぐらい前にフランス語に翻訳された家畜人ヤプーがサド賞を受賞したのが驚き
それは知らなかった。フランス人がこの本を読んで何を思うのでしょう?
家畜人ヤプー検索してて、家畜人ヤプーの回と今回見ました。 澁澤龍彦も好きだから、チャンネル登録しました☺
日本人の劣等感って重要なテーマですね。
コメントありがとうございます。 海外の反応というたぐいのTH-cam動画がけっこうあがってますよね。あれなんかも日本人の劣等感の裏返しのあらわれかなと思います。
思想らしいのが、初めのページにあって、シビヤだなと感じました。
コメントありがとうございます。サンテグジュペリは私がいちばん好きな作家です。そして「人間の土地」は私がいちばん好きな彼の本です。「人間の土地」の冒頭に書かれた彼の思想は、職業パイロットとしての彼の体験から生まれた思想だと思います。その思想に導かれるままに、サンテグジュペリは若くして地中海の空に消えてしまいました。
私は石ノ森章太郎先生の漫画版しか読んだことはありませんが、特にマゾヒストでなくともあまり一般的ではない未来世界の描かれ方や思い切ったアイデアに魅了された覚えがあります。私自身は、こんな世界でどう生きればいいのか、軽く絶望感を感じてたような気もしますが、たまにフィクションで見られる悲観的感覚を楽しんでいたような感覚です。これもマゾヒズムなのでしょうか? たしかにこの作品を日本人以外の人間が読んだらどう感じるのか、興味深いと考えてしまう私は日本人なのでしょう(笑) 翻訳されてたりはしないのかな。
コメントありがとうございます。石森版「家畜人ヤプー」はすばらしいです。私もじつはマゾヒズムの本当のところはよく分かりません。石森章太郎のすごいところは原作を超越して独自の未来世界を創り出しているところだと思います。たいして沼正三版の「家畜人ヤプー」のすごいところは、その細部にわたる緻密な設定です。エグイ表現も多々ありますが、一読してみることをお勧めします。
以外に思われるかも知れませんが、私の座右の銘は《Всё Хорошо Всё》なんです。このたった3つの単語の中にドストエーフスキイの思想のエッセンスが詰め込まれていると感じています。大学生の時『悪霊』を読んで以来ずっと頭の中で響き続けている言葉なんです。 キリーロフとシャートフはスタヴローギンに弄ばれた人物です。片やスラヴ思想めいたものを与えられ熱心に信じました。言うまでもなくシャートフです。キリーロフはご存じのように、アンチキリストの思想を与えられ、それを熱心に信じた。 どうしても何処に書いてあったのか分からないのですが、スタヴローギンがキリーロフに「貴方はキリストを信じたならば熱心なキリスト教徒なったでしょうね」と言ったような事を書いてあった様に記憶しているのですが、私の記憶違いでしょうか? キリーロフの思想は、キリーロフがキリストを否定しなければ、後の「カラマーゾフの兄弟」のマルケルの発言と一致します。後「未成年」ドルゴルキイ老人にも同じ様な感じを受けます。
スタブローギンがキリーロフにそういうことを言ったかどうか、今すぐには分からないのですが、シャートフがキリーロフに「きみは実に良い人間だなあ。もしももしもきみが無神論的な思想を捨てさえしたならば、きみはほんとうにすばらしい人間になるんだがなあ!」というような意味のことを言った箇所はありますね。これは彼らが最後に顔を合わせたときのことだったと思います。たしかにキリーロフは本来じつに誠実で、いわゆる人間の鑑のような人物なんですよね。ところがこういう誠実な、まちがいがない人物にかぎって「自由」という名の罠に落ちてしまう。イワンもまたそういう人物だったと私は思っています。ところで私はロシア語が読めないので、その言葉の意味を教えていただけると幸いです。
@@ドストエフスキーの肖像 そうですか、シャートフでしたか。完全な私の記憶違いですね。言っていることは殆ど同じですものね。どうりで、スタヴローギンの話している所を探しても見つからなかった訳ですね。有難う御座いました。 最初に謝っておきます。別に私は皮肉を言う心算は全くないのですが、大学時代にゼミの先生(私にとっては恩師です)に「やっぱり最後は原語で読まなければ、本当のことはわからないよ。」と言われました。先生は(もう卒業をまじかに控えた時でした)「僕のロシア語の授業を受けに来ないか」とお誘いを受け、卒業後2年間ロシア語の授業を無料で受けさせてもらい、教科書まで先生から頂きました。併し乍ら、その時にはロシア語をものにすることは出来ず、先生には申し訳ない気持ちで一杯でした。その気持ちがずっと私の体内でくすぶっていたのと、原語で読みたいという欲求が強くなり、子供達も手を離れ独り立ちしてから、ロシア語に再挑戦することにし、59歳から2年間オンラインでキルギス人の先生にロシア語を教わり、ある程度までは読めるようになりました。 前置きが長くなってしまい、すいません。私が書いたロシア語は《フショー ハラショー フショー》と読みます。意味は直訳すると「全てがいい、すべてが」となります。ロシア人に聞いても「ドストエーフスキイのロシア語はわかりずらい」そうです。《Что》(シュトー)=英語のwhatに当たる疑問視なのですが、これが関係代名詞の役割も果たしていて、ドストエーフスキイの文章は《Что》で長々と続くものが多いです。何処へどう繋がっているのか、分からなくなり、本当に難しいです。チェーホフの短編などは私程度の読解力でもある程度は読めるのですがね。 長くなってしまいましたが、もう書いてしまったので、そのまましておきます。
@@アリョーシャ-x3j ドストエフスキーのロシア語が分かりずらいというのは、よく耳にします。それはもしかしたら、彼が一時期、必要に迫られて、口述筆記という手法に頼っていたためかもしれません。勝手な想像ですが、その口述筆記という手法が、後の五大小説(特に「白痴」や「カラマーゾフの兄弟」)に見られる演劇的作風の確立につながったのではないかと私は考えています。 それにしても還暦を前にして、ロシア語に再挑戦というのはすごいですね!
スメルジャコフがてんかんになったきっかけが、聖書のことでスメルジャコフがなにか言ってグリゴーリィがスメルジャコフに手をあげたこと、っていうのがありましたよね。 てんかんのことを知ったフョードルのスメルジャコフへの対応が変わった、っというのもすごく気になるところなのですが、話がそれちゃうので。 スメルジャコフの半分を作ったのはグリゴーリィだと思ってしまって二回目読んだ時グリゴーリィ気にしながら読みましたが、グリゴーリィは黒、っていえるほどでは無く。 視点をかえて何度でも読みたくなります。
私がこの本に一気に引き込まれたのは、序盤の会合でフョードルが自分で道化を演じてしまうことについて語る部分です。私は実際に言動にはしませんが気持ちはすごく分かる。上手く説明できませんが、うわべだけのその場をこわしたくなる気持ちが分かる。そしてそれに対するゾシマ長老の言葉にまた更に、そうなんですそうなんです、と。
まったく同感です。若いころの私はまさしくそういう気持ちを持っていました。
はじめまして。 日本で一番ドストエフスキー研究が盛んな研究室のある大学院はどこが挙げられますでしょうか?教えていただけると幸いです。
mu-donさん、すいません。わたしは個人的にドストエフスキーについて探求しているものなので、そこらへんの情報はもっていません。実際、わたしはロシア語も読めませんし、ドストエフスキーに関する研究書みたいなものも、ほとんど読んだことはありません。ただ、わたしにとって、ドストエフスキーという作家が唯一無二の存在であることは確かです。
返信ありがとうございます。 そうなんですね!てっきり専門的に研究しておられる方だと思い込んでいました。声や喋り方がどことなく亀山郁夫さんに似てもいたので、、笑
黒澤明の作品が上手いですよ。長過ぎるけど。
コメントありがとうございます。黒澤が映画化しているとは知りませんでした。
ドストエフスキーってニーチェの本読んでなかったんですね、ちょっと意外
「ツァラトゥストラ」が発表されたとき、すでにドストエフスキーは亡くなっていたと思います。
生身のドストエフスキーがどんな男だったかと謂うと、ドミートリィであった訳ですが、世界文学には、ドストエフスキーのような人物が存在する。 フランスの象徴派詩人のアルチュール・ランボーです。 15歳で三百年に一人の天才と謳われた『酔いどれ船』の作者です。 この偉大なる詩人は、ヴェルレーヌ以外に友は無く、詩人と謂う職業であった事も無い。後のヴェルレーヌ、マラルメ、ヴァレリイ等が高く評価したからに過ぎない。 近代文学史では、ランボーとドストエフスキーが時として一緒に論ぜられる場合が有ります。
ドストエフスキーにしろランボーにしろ、仮に自分の隣人としていたとすると、正直たえられないでしょうね。でも、彼らのような人物がいない世界もまた非常につまらない世界だと思いますが。
@@ドストエフスキーの肖像 19世紀末のパリに「火曜日の会」という芸術家達のサロンが有りました。ヴェルレーヌはランボーを連れて行くのですが、ランボーは他の詩人の朗読に「クソくらえ!!」と悉く拒否します。ランボーは部屋からつまみ出されますが、帰りに出口で待ち構えていて、仕込み杖で殴りかかったりします。全人類から拒絶されるような状態です。この時サロンに参加していた画家のルドン、モロー、ミレー、音楽家のドビュッシー、ワーグナー等を今日「象徴派」と呼んでいるのは間違いです。象徴派詩人のランボー、ヴェルレーヌ、マラルメが参加していた為、そう呼ばれましたが、ランボーは誰からも理解されません。 ドストエフスキーも純粋理性で行動した後、刑務所行きになります。正しいと思って行動するのに何かが間違っています。政治にも多くの誤謬が有ります。だが、政治は小さな事です。大きな問題は「神」に有る。 ランボーは作品に「この世はキリスト教より先には進まない」と書いています。
@@waterclear6529 さん ドストエフスキーが純粋理性で行動できるとは、わたしには思えませんが。
@@ドストエフスキーの肖像 嘗て、秋山駿は「ドストエフスキーはカントを読んでいた」と言っていますが、彼は常に貧乏人や不遇な者の味方です。劣等種族の血筋です。政治は小さな事ですが、無限に大きな問題に突き当たるには、どうしても「神」と対峙しなければなりません。イエスがドストエフスキーにどんな答えを出したのか、ということです。
人間は何故存在するのか、存在の秘密を長い間握っていたのは宗教でした。埴谷雄高は、ロシアには打ち降ろせばかちんと鳴る実体が有る、ロシア正教の歴史が有るのが羨ましい、と述べています。だいたい日本には埴谷雄高が理解されないことに絶望する。日本の歴史上初めて誕生した世界的思想家で有るにも拘わらず、理解されない。昔、秋山駿が文芸誌の司会で「埴谷雄高の『死霊(シレイ)』には、宇宙の始まりに向かう意思が有るな」で始まった。埴谷文学の意義を理解していた秋山駿らしい司会ぶりだった。ドストエフスキーや埴谷雄高が、「神」とどう関わっているかを理解する現代人は皆無だと思える。それがとても残念です。
宗教と人間というのは切っても切れない関係にあると思います。極端ないいかたをすると、人間と動物のちがいは、宗教を持つかどうかによると。
女出入りに関わってムルソーは人を殺します。理由は「太陽のせいだ」19世紀のドストエフスキーと象徴派を20世紀に継承した作品です。ムルソーは正しい。サルトルはカミュを「反抗的な人間」と呼んでいる。更にドストエフスキーの形而上学を「あの飛躍」と揶揄している。象徴派に対してもボードレールのダンディズムを「失敗である」とし、ランボーの「見者の詩法」にも「面白い、そんな事が出来るならやってもらおう」と揶揄している。サルトルは象徴派やドストエフスキーを継承していないのです。ニーチェを高く評価するサルトルは、主著『存在と無』で「存在とは対自存在である」事を弁証したに過ぎない。神に一歩でも半歩でも近づこうとした象徴派とは異なるのだ。 ドストエフスキーは、世界文学の流れのなかで、象徴派の仲間です。
カミュがドストエフスキーに多大な影響を受けているのはまちがいないと思います。しかし、これはわたしの勝手な想像ですが、カミュはドストエフスキーのほんとうに怪物的な側面には気づいていないような気がします。
生身のドストエフスキーがどんな人間だったかと謂うと、ドミートリィだった訳で、では三男のアレクセイは生身の人間では誰かと謂うと、ワーズワースです。では、イワンはどんな作家なのかとなると、此は難しい。サルトルのようだが其はサルトルを褒め過ぎだ。近代文学系の作家達の間では、サルトルの実存哲学は小さな才能でしかない。 発狂したニーチェを高く評価した哲学者サルトルは、読者を選んでいない。酔い痴れながら小説を書いているドストエフスキーには、現実を生きる者と死んだ者との邂逅する名場面が多く有る。イワンはカフカのようでも有り、カミュのようでも有る。秋山駿はイワンをして「墓場の思想」と呼んでいますが、ムイシュキンに対するイポリート、そしてスタヴローギンとフェージカは現実社会を生きているのだ。
コメントありがとうございます。 「墓場の思想」というのは、たしかに的を射た表現だと思います。イワンの思想というのは、いってみれば「真実」を限りなく追及した思想だとわたしは考えています。「真実」を限りなく追及した結果、イワンがたどり着いたのが、限りなく高い塔の上で、いわばイワンはバベルの塔の上に取り残された最後の人間という役どころかと思います。バベルの塔の上に取り残されたイワンはついにどこにも行くことができずに、破滅するしかないのでしょう。では、作者であるドストエフスキーはどうかというと、彼はおそらく「真実」を知っているくせに、自らは塔の上に上ってゆくことをしない人間だと、わたしは考えています。
ドストエフスキーは古典の作家、過去の偉い人ではありません。常にリアルタイムを生きているのです。私は、イエスを仲間だったと思います。宗教のキリストではなく、無惨に死んだ腸の塊の死骸のイエスです。イエスは永遠者若しくは神と呼ばれた者とは逢ってはいなかったのです。イエスすら辿り着けない無限大の世界に辿り着けるのは、スタヴローギンである、とドストエフスキーは書いているのだと思います。
@@waterclear6529 さん、チホン神父との対話の章で、ドストエフスキーはスタブローギンに「自分は善も悪もない人間だ」といわせていますね。しかもスタブローギンは、単に思想的な意味だけではなく、行動者としても「善も悪もない」人間として設定されているわけです。ある意味、スタブローギンはドストエフスキーにとって、ムイシュキンやアレクセイ以上の理想の人物像だったのかもしれません。
ドストエフスキーは酔しれ乍小説を書いている。ムイシュキンの前に「将軍」を置いて、「将軍」は涙乍に荒唐無稽な思い出話をする。スタヴローギンの前には懲役人のフェージカを置く。ムイシュキンは軈て、アレクセイとなって最後の長編小説に登場する。だが、ドストエフスキーは並みの小説家ではないから、ムイシュキンの前に「イポリート」も置いています。埴谷雄高は一切イポリートを評価する文章を書いていませんが、秋山駿は「天才とはとんでもない者だ」として、イポリートを最大限に評価しています。バカで身持ちは悪いのに、この世の全てを考えるのです。その様な思考をした人間として秋山駿はドストエフスキー以外にランボーとパスカルを挙げている。
「カラマーゾフの兄弟」のアリョシャはムイシュキンの完成形だとわたしは思っています。アリョシャもまた主人公でありながら、主人公らしくない人物ですよね。ただ、よく誤解されているように、このふたりはたんなる善良な人物ではないとわたしは考えます。このふたりの共通の性格として、猜疑心の深さと直観力の鋭さをあげることができます。このような特質は必ずしも「無条件に美しい」人間の性格としては、ふさわしくないような気がします。それでもドストエフスキーはこの二人の青年に、このような特質を授けた。なぜか? と、わたしは数十年来考えつづけてきました。ひとつの解答として、ふたりは探偵として物語を解明する役割を担っているのかもしれません。この二人の前に出ると、人々は自らの内面を容赦なくさらけ出してしまうのです。ムイシュキンの前の将軍たちのように。
キリーロフの語りは何十回も繰り返し、繰り返し読んだものでした。他にはスタヴローギンの語りも繰り返し読んだものでした。埴谷雄高が「小説は形而上学として可能である」と述べている訳ですね。秋山駿は、ドストエフスキー、ランボーと共に並べているパスカルが真夜中の思想家ですね。問題は一つだけです。神とは何か!? ドストエフスキーの言葉は迫真に迫る!! ドストエフスキーは誰の真似をしたものではない、自分で考えたから、自分の言葉で語る。私の胸の奥の奥迄迫る。
おそらくドストエフスキーくらい疑い深い人間はいないのだと思います。とてつもない猜疑心の深さによって、ドストエフスキーは人間の心の奥底深く切り込んでゆきます。人間の心の奥底深く、ということは、とりもなおさずドストエフスキー自身の心の奥底深く、ということでしょうが。
生活が落ち着いてから書かれた唯一の長編小説ですね。イワンを「墓場の思想」と呼んだのは若い頃の秋山駿だったかな? 何しろ昔の事なので記憶が定かではない。世界文学の最高傑作と呼ぶ方も多いでしょう。
まちがいなく世界文学の最高傑作です。「カラマーゾフの兄弟」にはじつにさまざまな小説の原型が詰め込まれています。次兄イワンの思想が「墓場の思想」といわれるゆえんは、おそらく彼の思想が空想的なものであり、行動に結びつかないからでしょう。父フィオドルの殺害犯人は誰だったのか? 空想的な犯罪の犯人としては、イワンがあげられるのでしょうが、実行犯としてはちがう。そこらへんを見抜いているのは三男アリョシャだけであり、だからこそイワンはアリョシャの「犯人はあなたではない!」という宣告を恐れるのでしょう。
私は、一連のドストエフスキー作品を読みながら、もう一方では、ボードレール、マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌ、ヴァレリイ、ポー等を読んでいました。象徴派とドストエフスキーは両輪のように読み進めていました。当時は、近代文学の開祖と思っていたし、以降のカミュ、ジッド、カフカも仲間だと思っていました。 現代は……、衰退しました。其は、ドストエフスキーや象徴派の「偏執狂」が人間の頂点なのだと思います。
わたしはドストエフスキーという作家は一種の怪物だと思っています。それも二つのちがった意味で、そう思っています。ひとつは、おっしゃるように近代文学の開祖として、開祖にして最大の作家として。もうひとつは意識の怪物という意味で。瀬川さんが列記されたボードレール等の作家たちは、芸術性の高い作品を書いた作家として、天才だとは思いますが、ドストエフスキーとはまったく異なった人種ですね。カミュについては、ドストエフスキーに強く影響を受けた作家ですね。しかし、ドストエフスキーほどには人間の意識を深堀してはいないと思います。
昔、ドストエフスキーの長編、中編は全作品読みました。『悪霊』は最も難解な作品だと思います。大昔、吉祥寺の埴谷雄高を訪ねたりしました。埴谷さんはロシア語が流暢なので、「貴方、ゴーゴリを読みなさい」と言われましたが、私はロシア語は全く駄目ですから。ドストエフスキーの想像力に終わりは有りません。スタヴローギンが札を投げると、「よいしょ、よいしょ」と拾うフェージカ。『悪霊』の名場面です。ドストエフスキーには、現実社会に生きる者と、死んだ者の邂逅が有ります。ドストエフスキーの真骨頂です。
埴谷雄高氏に会ったことがあるとは! ちょっとびっくりです。どんな人物だったのでしょう。ところで、お札拾いの場面ですけど、たしかにおもしろい場面です。見逃されがちですが、ドストエフスキーの小説は案外こっけい小説的な場面が多くあります。たとえば「地下室の手記」などは、ある意味、純然たるこっけい小説といってもいいでしょう。ただ、おそろしいのは、そのこっけい小説をわれわれ読者が読み進めていると、ある時点で、それががらりと様相を変え、深刻な悲劇へと裏返ることです。喜劇と悲劇は現実の両側面だということを、ドストエフスキーくらい実感として知っていた作家はいないようです。
この動画は営利目的の動画ではありませんが、TH-cam規約の変更のため、6月からTH-cam側の判断で、広告が付くようになったようです。
どの作品が口述筆記でどの作品がそうではないのか、どうなんでしょう。でも、その速記者とドストエフスキーが結婚することになったのは面白いですよね笑
スメルジャコフに人間味を感じないのはおっしゃられているように、彼が精神を病んでいるからだという説は、私もそうだと思います。ドストエフスキーの描いた登場人物は、皆心を病んでいると言われていますね。スメルジャコフにあたりまえの人間的な要求をすることは、間違っています。精神疾患と言う病はかなりの重たい病気です。もしそのようなものがひとを殴りでもしたら、即精神鑑定を余儀なくされるでしょう。人間味を失うとはそこまで押しやられてしまったと言える状態で、これはその証左だと言えるのだと、私は思います。慎重に扱わなければ、仮にスメルジャコフだとすると、スメルジャコフの疾患はますます悪化して行き、彼は人間の根本をないがしろにされた、冒涜された人間に落ちて行きます。ドストエフスキー自身について言えば、彼自身も精神疾患で重い癲癇を発症していました。癲癇の発作が起こるたびに創作活動は中断され、練りに練った構想は何度となく頓挫し、執筆は最初からやり直さなければならないと言う、気の遠くなるような工程が繰り返されます。彼はひどくつらい執筆環境で生きることを余儀なくされます。彼のの担当者は、魂の限りを費やして書いたドストエフスキーの原稿を何度も何度も突き返し、書き換えしないと出版はさせないと言いました。その遣り取りは落命ぎりぎりの取り引きであり、壮絶なものであったと聞いています。この小説はこのようにして生まれています。
私にとってドストエフスキーは特別な作家です。それは好きとか嫌いとかいう以前の問題です。彼が重度の精神疾患であったかどうか、それはわかりませんが、一般的な人間とまったく異なった精神状態にあった人ではないかと、私は思っています。一種の精神的な怪物といっていいでしょう。おそらく彼くらい人間性の真実に近づいた人間はいないと思います。「地下室の手記」以後の作品において、ドストエフスキーは彼自身の分身を舞台の上に登場させました。スメルジャコフはその中でも最も不思議なキャラクターです。
同感です。カラマーゾフの兄弟を読んだ時に小説を超えていると感じました。