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小林道憲チャンネル・市民大学講座
เข้าร่วมเมื่อ 7 พ.ย. 2022
私は、自然、倫理、歴史、芸術、宗教、存在、認識、文明、各方面にわたって、自分なりの思想を展開してきました。
この、生命の本質から宇宙の真理にまで及ぶ、長い間の思索を、市民大学講座として、画像を交えながら、解説していきます。何回にもわたりますが、心を込めて、心ある視聴者に語りかけていきたいと思っています。
プロフィール
1944年福井県生まれ。
1963年から1972年まで、京都大学文学部、同大学院文学研究科(修士・博士課程)で哲学(西洋哲学史)を専攻。
1972年より2010年まで福井大学教育学部(後・教育地域科学部)講師、助教授、教授、および、同大学大学院教育学研究科教授。その間、1999年から2011年まで、麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授を兼ねた。
専攻は、哲学・文明論。
この、生命の本質から宇宙の真理にまで及ぶ、長い間の思索を、市民大学講座として、画像を交えながら、解説していきます。何回にもわたりますが、心を込めて、心ある視聴者に語りかけていきたいと思っています。
プロフィール
1944年福井県生まれ。
1963年から1972年まで、京都大学文学部、同大学院文学研究科(修士・博士課程)で哲学(西洋哲学史)を専攻。
1972年より2010年まで福井大学教育学部(後・教育地域科学部)講師、助教授、教授、および、同大学大学院教育学研究科教授。その間、1999年から2011年まで、麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授を兼ねた。
専攻は、哲学・文明論。
新環境学(2)環境創造
技術は、社会を変え、倫理を変え、環境を創造する力も持っている。伝統技術が環境問題解決に寄与したように、技術は環境適応だけでなく、環境創造にも貢献する。新しい環境学の提案。
มุมมอง: 31
วีดีโอ
文明と宗教(2)仮想から現実へ
มุมมอง 9314 ชั่วโมงที่ผ่านมา
宗教は、文明形成において重要な役割を果たす。実際、キリスト教や大乗仏教は、社会の安定と文明の発展を促した。仮想は現実を形作る力を持つのである。文明と宗教の考察。
文明と宗教-大自然への畏怖
มุมมอง 6219 ชั่วโมงที่ผ่านมา
宗教は自然への畏怖から生まれた。現代は自然を無視し、精神的支柱を失った人々が不安の中に生きている。原初的な宗教観念を再認識する文明論。
生命体としての文明(5)文明の死と再生
มุมมอง 86วันที่ผ่านมา
生命史と宇宙史から見た文明論。 生命は物質やエネルギーを吸収し、組織を形成して、それをまた自然に返す。文明もまた、創造と滅亡を経て、自然に帰り、大地に帰還する。宇宙もまた、生成と消滅を繰り返している。生命や文明は、宇宙の一部である。
生命体としての文明(4)環境改変
มุมมอง 6414 วันที่ผ่านมา
生命は、環境との相互作用を通して、環境に適応するとともに、環境を改変する。人間の作る文明も、技術によって、環境に適応するとともに、環境を創造している。生命史も、人類史も、環境改変の歴史である。
生命体としての文明(3)文明 の進化と飛躍
มุมมอง 10114 วันที่ผ่านมา
生命は、相互作用によって自己形成し進化する動的なシステムである。人類の文明も、同様に、文明や環境との相互作用から新たな形態を生み出す動的なシステムである。人類史は、いくつかの革命を通して技術や文化を変革し、地域ごとに、多様な文明を形成してきた。それは、生命の飛躍と分岐の過程に似ている。生命史から文明史へ。
生命体としての文明(2)文明の統合力
มุมมอง 5114 วันที่ผ่านมา
生命体は、環境との相互作用のもと、物質、エネルギー、情報を代謝して、自己を形成する。人間の文明も、自然から資源を得て、環境との相互作用のもと、新たな秩序を生み出す。生命と文明は共に統合力をもつが、文明の場合、文化がその統合力を担っている。生命史から人類史へ。
生命体としての文明 (1)文明と環境の相互作用
มุมมอง 14921 วันที่ผ่านมา
恐竜の絶滅とその後の生命進化、さらに、人類文明の形成の例をあげながら、生命と文明が、環境との相互作用によって成り立つことを説く。人類の文明も、環境の変動に応じて形成される。旧石器文明や新石器文明は、その結果として起こった。人類史への試み。
複雑系としての文明(2)文明の分岐と偶然
มุมมอง 16521 วันที่ผ่านมา
文明の形態は固定されておらず、要素の組み合わせや相互作用によって多様な形態を取ることができる。だから、歴史の進展は偶然に依存し、特定の人物や技術の発見が文明の方向性に大きな影響を与える。 文明は、文明間相互作用を通じて自己を形成し、新たな秩序や構造を生み出す複雑系であり、常に変化し進化し続ける生命体である。 文明の交流史観からみた複雑系文明論。
複雑系としての文明(1)ー文明の飛躍
มุมมอง 25328 วันที่ผ่านมา
人類の文明史には、特定の分岐点で高度な秩序への移行が起こる文明の相転移がいくつか存在する。旧石器革命、新石器革命、都市革命、精神革命、高度宗教革命、商業革命、科学革命、産業革命、情報革命などである。これには、宗教や環境との相互作用が重要な役割を果たしている。文明を自己組織系としてみる複雑系文明論。
相成の文明論(2)
มุมมอง 120หลายเดือนก่อน
文明の縦の発展には、文明の横の関係が絡んでいる。文明は、相互作用から自己形成していくものであり、関係において変化する過程である。このことを、中国文明や日本文明や西欧文明などの例をあげながら説く。文明の交流史観から見た文明相成論。
相成の文明論(1)
มุมมอง 94หลายเดือนก่อน
文明は、交流を通して変動していく。文明があって交流があるのではなく、交流があって文明がある。互いに接触し、交渉し、刺激し合うことによって、文明は変容していく。このことを、中国文明、ローマ文明、西欧文明などの例をあげながら説く。文明の交流史観の展開。
媒体文明論(3)海の媒体文明
มุมมอง 83หลายเดือนก่อน
港市や島嶼は、文化や情報の交流を促進し、文明間の相互作用を強化する重要な役割を果たしてきた。特に、東南アジア文明は、中心文明や周辺文明を繋ぐ媒介者として、文明交流に大きな役割をはたしてきた海の媒体文明である。
媒体文明論 (2) オアシス都市文明
มุมมอง 143หลายเดือนก่อน
オアシス都市文明は、文明交流圏の結節点に育つ文明であり、ユーラシアの諸文明を結び、それらに刺激を与える文明である。それは、ユーラシアの諸文明の架け橋となるとともに、それらを変動させていく大きな役割を果たしてきた。オアシス都市文明は、単なる辺境文明でも、周辺文明でもなく、諸文明の媒介の役割を果たす媒体文明なのである。文明の交流史観からみたあいだの文明論。
「生成の文明論⑴、⑵を拝見しました。私も同感です。 私は「個人」とか「主体」の問題を考えています。 先生の論は、そのまま人間の「主体」の問題にも当てはまりますね。 哲学にはありますが、現代の人々(政治家、経済人、一般人等諸々の人)」の想い、思考は意外にも相互作用を軽視した考え方になっているように思います。 私は、一般人で専門家ではありませんが、「人」「社会」「政治」「国家」には多少関心を持っています。
1:39ゴッホ
5:14ニーチェ
いいですね。
小林先生の生の声での授業が聴きたいです!
82歳のバアサンが英語ペラペラなんて大法螺コアーシャルは放送するなよ。動画投稿の内容よりもコマーシャルのデタラメさをもっと検閲しろよ事務居さんよ。
動画ありがとうございます。動物の行動パターンの習慣・変化や主体的形成力は、必ずしも遺伝子に組み込まれなくとも、先生のチャンネルで言及されている「場」のほうに記録され伝わると考えることも可能かと思いました。
素晴らしいです。ありがとうございます。
すごく面白かったです。理解ができていない自分にふっと気づくような面白さでした。素敵な動画ありがとうございます。
ご視聴いただきありがとうございました。宇宙、物質、生命が、情報システムであることは、現代の物理学でも十分には展開されていないことです。本来は、シャノンの情報理論や、プリゴジンの自己組織化理論や、宇宙進化論などを総合して体系づけねばならない新分野だと思います。 私は、ただ、哲学的に指摘しているにとどまっています。誰か有能な物理学者がでてきてくれないか期待しています。あるいはすでに出てきているのかもしれませんが、その情報を得ていないのが、今のところ、私の限界です。
@@小林道憲チャンネル市民大 ありがとうございます。私は私のことをどういう人間なのかわからずにいます。哲学的な人間な気もするし芸術的な人間な気もするし、何かまた別の何かな気も濃厚にします。先生(という表現が不適当でしたらごめんなさい)の動画は、哲学的な思索とともにその思索を試み続ける私って何者なんだろう?と考える鏡のような感覚でたまに拝見しております。哲学的な思索がわからないことによって自分が開かれるような。これからも動画楽しみにしております(既にご投稿の動画の視聴も含めて)。
こちらは小林先生が作成されているチャンネルでしょうか。最近歴史を学ぼうと『歴史哲学への招待』を購入し内容に驚いていたところ、本日、こちらのチャンネルに出会いました。市民大学講座学ばせていただきます(拝)。
拙著『歴史哲学への招待』をお読みいただき、有り難うございます。本書の内容を、市民大学講座の第4回から第8回までで、音声と画像によっても発表しておりますので、ご参照いただければ幸いです。 ただ、これは、市民大学講座を始めてから間もないころに作ったもので、出来はあまりよくありません。 ここで、考えている時間論は、また、生命の時間と深く関係していると思います。 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
返信いただきまして心より感謝いたします。第1回から時間はかかりますが見させていただいております。ありがとうございました。
こっちで説明ができてあっちで説明ができないというものが数多くあればこっちが主流になっていくでしょう どっちの説も常に発展途上なのでどうなるのかですね
すっごく思考?が再整理?されます。ありがとうございます😆😆😆
「動物の思考」(1)の中で、「蜜」と「密」、間違っていました! 訂正して、再アップロードしました。ご指摘、ありがとうございました。
子供の頃から、生きる意味目的が判らず、また他人と自分が異なることに違和感があり、悩んで来たように思う。 成長するに伴い、それが苦しみに変わり、生きていたくないと思うようなこともあった。 そこには、性の悩みもあった。性は生の象徴。 しかし、人はいずれ、必ず死ぬということが現実に判るとともに全ての悩みは薄くなってきている。むしろ幸福とも言える。 今はいつ死んでも良いという気になっている。自分のみではなく、周りの人間の死も受け入れられる。 いつかは死ぬということ、それは何も抵抗するべき問題ではない。 死にたくないという欲望に支配されている人を見るとばかばかしくなってくる。 メメントモリという言葉もそういうことなのではないだろうか。
今回も、ありがとうございました!勉強になりました! しかし逆さ眼鏡の実験の下りは衝撃です… つまり人間が見ている通りの世界かどうか分からないという事になりませんか? 運動と合致するように見えているだけで、真の世界の在り方と認識された世界の在り方は別だとすると、ロマンがあるなと思いました! 次回も楽しみにしております😊
毎回、当たり前の事に気付かされて勉強になります。 まさにコロンブスの玉子! ふざけているわけでは無いですが、今回の動画を耳掃除しながら視聴していたので、まさに迫真性と臨済性を持って視聴することが出来ました。いや、本当に。
コメント、ありがとうございます。 毎回、ご視聴とのこと、ありがとうございます。 この次は、視覚と運動感覚というのをやります。 今後ともよろしくお願いいたします。
カオス著作権。
色彩を主観と客観の相互の連関によって生み出された知覚として捉えるこの認識はきっと「色彩の話」に留まらず世の中に渦巻く多くの混乱を解消してゆく糸口になるくらいに重要な捉え方だと思います。 まだまだ二元論的な捉え方が支配的な現状では一つの事象には必ず唯一の確固たる絶対的で固定的な意味しかないと思い込みがちですけれど、主体である私と客体である観察対象の相互連関でその対象が持つ意味が「私にはそう見えている」と多くの人々が捉えることができればいたずらに善だ悪だと知覚した事象を絶対視して悪意すら持たず自ら不毛な争いをわざわざ起こす過ちや一般化することが不適切な事柄まで法的に禁止事項にしてしまうような愚行を犯すこともなくなるような気がします。これは多様性を叫びながら一律な一様性を強引に押し付ける今の社会で行われている自己矛盾を解消することにも繋がっていくと思います。
動画の内容はすごく納得いく話なのですが、例えば、数学において円を考えた場合、ある1点からrという値だけ等距離の点の集合ということになるのですが、この場合の人間と数学上の円の関係性はどのように捉えたらいいのでしょうか?
ご視聴いただき、ありがとうございます。 平面幾何学の場合、確かに、円は、ある1点からrという値だけ等距離の点の集合ということになります。しかし、これは、知覚されて在ることを全く無視して純客観で考えた場合の話です。ここに、知覚の視点を入れれば、見る角度や方向、運動状態によって、距離は様々に変わって現われるはずです。また、対象の置かれている角度や運動状態によっても、距離は変わって現われるはずです。主観と客観の関係、主観と客観の間で、知覚心理学的にものを考えるなら、別の幾何学を考えることができるでしょう。 コメントありがとうございました。
SFのワンシーンで脳みそだけが ケースの中で活動しているような 描写がありますが、この時、 この脳が数学をすることができるか? 直感的にはできないと思うんです。 明晰夢を考えた場合、かなりリアルな 体験といえると思いますが、それは 実体験があってそれを再構成している だけであると考えられると思います。 結局、数学という抽象も人間としての 実体験と切り離せないと思うのですが どうでしょうか?
@@ogawakatsuhiko 現代の抽象数学のほとんどは、その源泉をその体験や直感に求めることはできません。そこが大層難しいところです。哲学上でも100年来の問題です。
とても面白かったです1ありがとうございます。他の動画の視聴もこれから楽しみです。 以下は、本動画から離れた独り言のようなコメントなのですが、 最近SFと哲学を重ね合わせて考えています。 SF・・・現実ではあり得ない科学的な何かを導入し、ただしその何か以外は全て現実科学を踏まえ理論的に世界・物語を構築していくこと。 哲学・・・真実ではないかもしれないが、ある何らかの発想・直感に基づき、論理的に?に世界認識を構築していく営み。 だから、SFも哲学も根本的に誤りかもしれないけれど、理性の結晶で、そうした結晶が素晴らしい価値を持つことを、主観と客体の相互作用みたいなことで根拠づけられないかなって最近考えています。 (という意味でもこの動画刺激になりました。ありがとうございました。)
ご視聴、ありがとうございます。 SFにも、現代の科学の成果を踏まえた深いものがあり、哲学に通じるものがあると思います。 世界観とか思想、ものの見方、そういうものは、確かに、主観と客観の相互作用から生まれ出てくるヴァーチャルな観念ですが、それがまた現実を反映するものだと思います。 SFも哲学も、その辺のところを表現しています。 興味あるコメント、ありがとうございました。
Опыт Майкельсона Морли от 1881 по 2015 г., сделан всего на 50%. Вторые 50% опыта, возможно выполнить из двух не круглые катушки с оптоволоконном в 6000 м. С внешними параметрами не более 25 см., типа ГИБРИД устройство и использовать его например в автобусе. При прямом движения измерять скорость автобуса 20, 25, 30 м/сек. Исходя из 💯% опыта Майкельсона получим постулаты: Свет - это упорядоченная вибрация гравитационных квантов. Постулат 2. Гравитационные поля регулируют частоту и скорость света в вакууме. Предложение о совместной реализации изобретения. Вы ведите переговоры с специалистами по производству оптоволоконных гироскопов. Техническая консультация по ГИБРИД - гироскопу и оплата стоимости тестового устройства с меня.
なるほど!観察するから、その先の世界が広がらざるを得ない?人の行為に合わせて、世界が世界を広げてくれているかのように感じました。 オススメに上がってきて、何となく見たつもりが、面白かったです!
ご視聴、ありがとうございます。 コメント、ありがとうございました。 言いたかったことは、おっしゃる通りです。
デカルトの二元論は有用であり、問題解決の初期段階では必須のアプローチと思われるが、現代社会で解決すべき問題が複雑さを増していることで新しい考えが必要なことであるという点は同意。ただし、生命現象の下りは「今の生物学の知識」で説明できないことと、「根本的に二元論で(決定論で)」説明できないことを混同する危険があるため、例としては不適切なのではないかと思った。
動画、興味深く拝見しました。 偶然の出会い、と書くと偶発的で神秘的な事態としても受け取れますが、数学的なカオス理論は決定論的カオスとも言われるように、初期条件が決まればその後の経過や結果は一意に決まります。 問題は、鋭敏な初期値依存性を私たちの宇宙においてどのように考えるか、だと思います。 力学的カオスが、極めて小さな初期値の差異をパイこね的に拡大して、全く異なる帰結をもたらす、としても、問題は私たちが初期条件や途中経過における条件の値を無限の桁数にわたって測定できるのか、ということにあるかと思います。 私たちの宇宙に対する観測可能な理論的な条件について考えると、プランク定数以下の差異は、どのような観測技術の発達をもってしても不可能、とのことですから、ここでどう考えれば良いのか、いつも悩みます。 刺激的な動画をありがとうございました、他の動画も拝見してみますね。
ご視聴いただき、有り難うございました。 決定論的カオスの場合、われわれが観測精度を無限に精密にし、初期条件や途中経過における条件の値を無限に確定しなければならないということに、極めて困難な問題があります。おっしゃるように、われわれの観測能力には限界があるからです。 ここに、存在の無限性と観測の有限性の矛盾があり、哲学的にも、極めて難しい問題にぶつかります。有限と無限、存在と認識の問題にぶつかるのです。 このことについては、私は私なりに、『複雑系を哲学する-〈生成〉からとらえた〈存在〉と〈認識〉』(ミネルヴァ書房)などで、非力ながら考えてきました。よろしかったら参考にして下さい。 TH-camの市民大学講座では、「エッシャーの多義図形」が、この問題に間接的にふれています。
総論は、科学的に理解できます。ただ、宇宙と生命体の間には、相互作用や選択肢の数が大きく違うだろうということも。そのように理解して、人間社会を見てみると、戦争(殺し合い)もひとつの正当な手段であり、避けることができないという結果に至ってしまいます。哀しいですね。
コメント有難うございました。
素晴らしい👍
人間以外の動物が意識やクオリアを持つかが気になる。哺乳類、爬虫類、魚類、虫、単細胞生物のどこが境目なのか。
地球進化史的に見ると、これまで生存していた生物種の96~99%位は (何度もの大量絶滅で) 死に絶えているようです。この歴史的事実と「生物の自由」をどのように考えられますか?
地球進化史上で、生命の大量絶滅が5回あったと言われていますが、このことを考慮に入れると、環境が生命を支配しているように見え、生命に自由はないように思われてしまいます。 しかし、それでもなお、生命は3%でも生き残り、そこから再び多様に分化、発展、進化してきました。この、どのような方向にでも分化(枝分かれ)、進化していくことができるところに、生命の自由があると考えられます。(いわば、選択の自由があるのです。)
「生命の流れにおいては、偶然と必然と自由は一つである」という言葉は分かりますが、明確な理解は不可能です。
生命を取り囲む環境の変動は、生命にとっては、いつ、どのような変動があるか分からないのですから、偶然と受け取られます。 しかし、それでもなお、生命は、分化や進化を繰り返して、自分の選んだ方向に自己形成していこうとしているのですから、この方向は、生命にとって、必然です。 この偶然と必然の出会いのところで、生命は、多様に分化、発展していくのですから、偶然と必然が一つになったところに、生命の自由があると言わねばなりません。
「統合力」の具体的なイメージが湧きません。 「おはなし」としては分かりますが、科学的は根拠をお示しするために、 参考文献・具体的な情報源をお示しくだされば有難いです。 でなければ、ひとつの「おはなし」以上でも以下でもないということになります。
生命の統合力の問題ですが、この点については、拙著『生命と宇宙』第一章、第二章で、かなり詳しく論じています。(参照:『小林道憲〈生命の哲学〉コレクション』第一巻所収 ミネルヴァ書房刊)
「一から多へ」の「1」とは具体的には何でしょう? また、グラフに単位の説明がないのは 〈科学的〉に言うと致命的です・・・
生命の進化の系統樹を見れば、多くの生物種が登場してくる根源のところは、樹の幹のように一つです。 多くの生物種は、そこから多様に分かれ出てきたわけですから、多への分化と言えます。 グラフは決して科学的なものではなく、むしろ芸術的なイメージとしてとらえていただけえば有難いです。
読書は、したことが殆どなく「90年」経ってしまいました。生れて初めて「芸術論」を伺いました感動しました。若い頃「トルストイの芸術論」をチラリと読んだことあります、たしか彼の主張した「芸術は順列組合せである」の件は、なぜか覚えています。たまたま拝聴した今回は「ナレーション」と字幕の「修辞」がとても綺麗で美しかったです。「修辞」の意味についての理解は幼くて、あまりよく分かりませんでした御免なさい。でも「絵と音楽」がとても大好きな人生でした。僕的に「感動の経験体験」はいくつかあって忘れてないですね。刻んで「心の奥」にしまってあります(笑)友人に「やたら喋らない方がイイ」って言われました(爆笑)10歳の頃「体育館」にあった「ピアノ」を一人で弾いてた音楽の先生の演奏に「ド感動」したのが生まれて初めての「感動」でした戦争中でした。「セザンヌ」が描いた絵は「存在の真実を表現している」って云う画風をあらためて知って良かったです。確か当時「フランス美術界」で「印象派の長」になれた人ですよね。イイお話でした有り難う御座いました。認識の仕方って云うか「捉え方」のいろいろが楽しい「芸術の世界」は永遠であってほしいです
ご視聴頂いた上、コメント頂き、ありがとうございました。 読書はなさらないということですが、芸術感覚は、バッチシお持ちのようで、その感動が何より大切だと思います。「心の奥」の感動こそ、生きる力です。 今後ともよろしくお願いいたします。
え~ッ「小林さん」からお返事が頂けるとは思ってませんでした。いやいや感動です。youtubeを観るようになってコメントを書き始めてるところでしたが嬉しかったお返事です。有り難う御座いました。@@小林道憲チャンネル市民大
「抽象」や「物の真理をとらえる」ことは、複雑な物の持つ特徴を要領よく簡単に写し出すことでしょう。その意味では、写実も感性的表現も「抽象」の1つになるはずです。感性を排除した機械的写実と、写実を軽視した観察者によっていくらでも変わるであろう感性表現とは、極端ですがどちらも「物の真理」をとらえるときに必要な道具で、その2つの道具をそれぞれどの程度どのように使うかによって、現れる「真理」はその全貌の一角を示すだけかもしれませんし、また一角を示すだけの方がその部分がより抽象されて力強く表現されるかもしれませんし、真理を隠すことも芸術になるかもしれません。セザンヌは何かを隠すことによってあるものをより真実に見せているのかもしれません。芸術は巨匠の技法を受け継ぎつつ何かを足し、何かを失うことでできていくのではないでしょうか。全く何も継承しない時に新たな巨匠は生まれにくく、一方全く同じことをしていては前人たちにかなわないでしょう。こうして「物の真理をとらえる」技法はいつでも不完全で、でも不完全だからこそ「抽象」し、要領よく独自の簡略化で真理を把握することができることでしょう。科学や学問は誰もが検証できる確実なものを求めますが、芸術は決して知ることのできないことも対象とし、しかも宗教や道徳のようによく生きることのために世界や自身をどうとらえるべきかという是非の区別も必ずしもないと思われます。知ることのできないものへの問いは終わりがないでしょうし、是非がないことは危険だけれども自由であるでしょう。古代やエジプトの芸術は宗教と密接な部分も多そうで、そのような芸術もあると思いますし、セザンヌは写実と感性のはざまへの洞察をよくしたととらえることはそれなりに筋が通っていると思いますが、芸術にはもっと多様性があり、セザンヌのとらえ方も1つではなさそうです。
コメントありがとうございました。 私は、芸術において、主観と客観、制作者と対象が〈出会う〉ところ、間(あいだ)を、問題にしています。 その〈出会い〉は多様だから、作風も多様になり、それが、作者の主観性と映るのだと思います。 客観(対象)から何を抽象してくるかも、〈出会い〉の多様性に応じて、多様になっていくのだと思います。 詳しくは、TH-camの「エッシャーの多義図形」や、拙著『芸術学事始め』(中央公論新社刊)を、ご参照いただければ有難いです。キンドルでも読めます。
@@小林道憲チャンネル市民大 返信と関連したもののご紹介ありがとうございます。セザンヌのこの、りんごなどのある静物画はどうも見直してしまう、思い出してしまう、自分を惹きつけるものがあります。彼のここでの抽象の仕方が何か私に響くものがあるのでしょう。平凡な優しい楽しさなのか、でも、どこか非凡な形や色合いで定着されているように思います。静物というか、人間やその感情や営み、セザンヌという人の何か、こちらに呼び掛けてくるものがそこに感じられます。
全然違います。初めに生命体の感性が在って、同時に其れに対応する時間と空間と物質のシステムがあって、生命体が動く事で、初めて時間と空間を知覚する訳です。動くモチベーション(本能・理性・導き?)は勿論、前後永遠無限の存在です。ですから「初めに~が在って」は、説明の便宜上に過ぎません。この世界には、「授業の始まり、終わり」同様の概念以外の、「始まり」「終わり」の概念は存在しません。「ビッグバンで宇宙が始まった」とは、物質と空間と時間が生まれたという、唯物論的物理学の便宜的用語です。それ以前に世界は無く、「無」。「無」とは、物質も其れが生み出す空間も時間も無いと言う、数学の「0」の様な、唯物物理学の便宜的基準です。しかし、異次元的巨大エネルギーの存在と爆発する因果と引き金の存在は、否定している訳ではない。単に現代科学が及ばないので、語れないだけ。それを感性の欠落した主に左巻きの御仁が、世界は無から始まったと信じ込む。非常に痛い事です。時間が在って運動のモチベーションが在って、運動が在り、時間を感じるのであるから、時間が在って運動が在るのですよ。運動で時間を感じますが、時間を生み出す訳ではありません。無時間の世界が「無」の世界であるかの様な誤解を与える説明は、非常に危険です。死が無ならば、ジェノサイドを奨励しますからね。出来事の因果とエネルギーのみが永遠無限で、物質・空間・時間を超越しています。これらは、生命体のセンサーが在ってのみ存在する物で、生命誕生以前の世界が存在するには、将来確実に生命が誕生するプログラムが存在するか、繋がる異次元に生命体のセンサーが存在しなければなりません。生命体を神と呼ぶか、バクテリアを連想するかは、お任せします。兎に角、量子論が唯物論物理学の殻を破った今日なればこそ、より生命重視で、野蛮な発想(死は無)を駆逐して行くべきかと考えます。コロナ戦略で地球人口が大幅減と、喜ぶ輩が居るそうですよ。
大変わかりやすい面白いないようでした 新しい視点を得ることができました ありがとうございました😭 また聞かせてください
コメントありがとうございました。 今後ともよろしくお願いいたします。
カタカムナやね