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田中正造を朗読する15分
Japan
เข้าร่วมเมื่อ 11 พ.ย. 2023
堀江宗正(東京大学教授)による田中正造に関わる文章(『田中正造選集』など)の朗読と解説。毎日15〜20分程度。
『田中正造選集4』第二章「議員辞職と天皇直訴」の総括
天皇直訴の前後で田中正造の文章は内容が激変する。直訴前は歳費辞退などを振り返ることが多い。それは議員辞職の説明のためである。歳費そのものが賄賂なのではないかという疑念が核心にあると言いたいようだ。
だが、心身の老化、脳病(精神病)の自覚なども、議員辞職の背景にあった。また、国会議員として東京にいると、被害民と一緒に運動ができない。議員を辞職したら、被害民の後について運動に参加したいということも、川俣事件前に述べていた。〝天皇直訴の前に、国会議員としての身分を捨てた〟という物語は、後付けの感じがある。
その一方で、被害地を視察する人が、直訴前に増えていた。東京にいるキリスト教知識人と女性運動家たちが主力である。彼らは、直訴後も毎日のように演説会をおこなった。直訴で世間の関心が高まったのは事実だろう。だが、その前にも十分に高まっていた。
天皇直訴の理由、目的は、動機と結果に分けて考えたほうがよい。(1)田中が公式の文章で繰り返しているのは、議会での議論も、被害民の請願も、鉱業停止につながらなかったからだというものである。それゆえ、天皇に直訴するしかなかったという。天皇崇拝というよりは、憲法に明記された請願権の延長でとらえている。天皇直訴は立憲主義の否定だという批判は当時も今もある。しかし、少なくとも田中にとっては立憲主義の枠内だった。
(2)もう一つ、田中自身が書いている内在的な動機がある。領主の重税に苦しむ農民のために、将軍に直訴した佐倉宗吾のようになろうというものである。だが「義人」になりたいと明言してはいない。むしろ、佐倉が領主に殺されたあと、逆に領主を祟り殺したという怪談の部分に田中はひかれている。田中は信心深いので、鉱毒犠牲者の霊による祟りの可能性にも言及していた。となると、自分が死ねば、とりわけ殺されれば、霊となって祟ろうと思っていたかもしれない。
(3)直訴によって、世間の関心が高まり、被害民への同情が深まり、一地方の問題から全国的な問題に広まった。東海林吉郎などは、それが直訴の狙いだと考える。全国的な問題になったことは間違いない。だが、それを田中が狙っていたかどうかは別問題だ。確かに石川半山はそれを狙っていただろう。しかし、彼の場合はニュースバリューを求めてのものだった。鉱業停止という大義の実現を目指していたかどうかは怪しい。
田中正造がどこまで世間の反響を計算に入れていたかも分からない。むしろ、直訴後の反響に驚いている。直訴自体は失敗だと恥じ入るものの、この好機を逃してはならないと頭を切り替えている。しかし、直訴後熱心に演説会を開いたのは、キリスト教徒や女性運動家たちであった。
(4)実際に天皇は動かされたのか。内務大臣が天皇と面会した後に、田中の釈放が急に決まった。このことから、天皇は田中と被害民に同情した可能性があると考えたい。しかし、研究者は天皇への反感から、この可能性を強調しない。事実、この頃は天皇に鉱毒問題を解決するような実務上の力はない。田中は、天皇に実際上の行動を求めたというよりも、シンボリックな最終請願行動をおこなったという気持ちかもしれない。徳義を体現するものとして、何らかの「お気持ち」でもいいからサインを欲したのかもしれない。
元来、田中正造は立憲主義者として、天皇に直接政治をさせてはいけないと考えていた。他方、徳治主義者としては、天皇に徳義を体現した聖人であることを示してほしいと期待していた。田中正造のなかで立憲主義と徳治主義は相克せず、共存していた。
だが、心身の老化、脳病(精神病)の自覚なども、議員辞職の背景にあった。また、国会議員として東京にいると、被害民と一緒に運動ができない。議員を辞職したら、被害民の後について運動に参加したいということも、川俣事件前に述べていた。〝天皇直訴の前に、国会議員としての身分を捨てた〟という物語は、後付けの感じがある。
その一方で、被害地を視察する人が、直訴前に増えていた。東京にいるキリスト教知識人と女性運動家たちが主力である。彼らは、直訴後も毎日のように演説会をおこなった。直訴で世間の関心が高まったのは事実だろう。だが、その前にも十分に高まっていた。
天皇直訴の理由、目的は、動機と結果に分けて考えたほうがよい。(1)田中が公式の文章で繰り返しているのは、議会での議論も、被害民の請願も、鉱業停止につながらなかったからだというものである。それゆえ、天皇に直訴するしかなかったという。天皇崇拝というよりは、憲法に明記された請願権の延長でとらえている。天皇直訴は立憲主義の否定だという批判は当時も今もある。しかし、少なくとも田中にとっては立憲主義の枠内だった。
(2)もう一つ、田中自身が書いている内在的な動機がある。領主の重税に苦しむ農民のために、将軍に直訴した佐倉宗吾のようになろうというものである。だが「義人」になりたいと明言してはいない。むしろ、佐倉が領主に殺されたあと、逆に領主を祟り殺したという怪談の部分に田中はひかれている。田中は信心深いので、鉱毒犠牲者の霊による祟りの可能性にも言及していた。となると、自分が死ねば、とりわけ殺されれば、霊となって祟ろうと思っていたかもしれない。
(3)直訴によって、世間の関心が高まり、被害民への同情が深まり、一地方の問題から全国的な問題に広まった。東海林吉郎などは、それが直訴の狙いだと考える。全国的な問題になったことは間違いない。だが、それを田中が狙っていたかどうかは別問題だ。確かに石川半山はそれを狙っていただろう。しかし、彼の場合はニュースバリューを求めてのものだった。鉱業停止という大義の実現を目指していたかどうかは怪しい。
田中正造がどこまで世間の反響を計算に入れていたかも分からない。むしろ、直訴後の反響に驚いている。直訴自体は失敗だと恥じ入るものの、この好機を逃してはならないと頭を切り替えている。しかし、直訴後熱心に演説会を開いたのは、キリスト教徒や女性運動家たちであった。
(4)実際に天皇は動かされたのか。内務大臣が天皇と面会した後に、田中の釈放が急に決まった。このことから、天皇は田中と被害民に同情した可能性があると考えたい。しかし、研究者は天皇への反感から、この可能性を強調しない。事実、この頃は天皇に鉱毒問題を解決するような実務上の力はない。田中は、天皇に実際上の行動を求めたというよりも、シンボリックな最終請願行動をおこなったという気持ちかもしれない。徳義を体現するものとして、何らかの「お気持ち」でもいいからサインを欲したのかもしれない。
元来、田中正造は立憲主義者として、天皇に直接政治をさせてはいけないと考えていた。他方、徳治主義者としては、天皇に徳義を体現した聖人であることを示してほしいと期待していた。田中正造のなかで立憲主義と徳治主義は相克せず、共存していた。
มุมมอง: 19
วีดีโอ
『田中正造選集4』112頁後ろから2行目〜113頁最後
มุมมอง 157 ชั่วโมงที่ผ่านมา
「直訴について「滑稽新聞」への寄書」続き 最近、志士(高い志を持つ人)がようやく被害地に注目し、視察に訪れ、予想以上のひどさに驚いている。川俣事件の裁判のため当局の司法関係者も訪れている。 しかし、人心腐敗し、議会も籠絡され、少数者の利害は顧みられず、被害はフェイクだというデマも登場した。大きな被害が出ているのに、馴致するほどではないとして、公衆に知らせないようにした。 直訴の理由は、政府・議会の加害企業との癒着と被害民への圧制(亡国の儀)により、言論も運動も訴訟も請願も効果がなかったためと明言する。つまり、メディア戦略が目的ではない。 一方、直訴自体は成功しなかったが、世間の関心が向いているのは二度ないチャンスだという。メディアを通して世間に訴えることが直訴の当初の目的だったのではなく、あくまで結果だとまとめられる。 そして、末筆で、自分は現代の佐倉宗吾だという。これも、布川のよう...
『田中正造選集4』112頁1行目〜後ろから2行目
มุมมอง 139 ชั่วโมงที่ผ่านมา
「直訴について「滑稽新聞」への寄書」続き 鉱毒問題への関わりについて述べる。自分は被害地に生まれ、この地に親しんでいて、惨状を目撃した。そして、この地の選挙民の付託を受けている。情義、つまり感情的な要因と、徳義上の要因から、この問題について傍観することはできない。それに対して、政府も議会も、この問題については他人事のようである。 むやみに叫んで、政府を問い詰め、無責 なことを言って、突拍子もない挙動で、天下の耳目を騒がせ、それはすべて売名行為だというのか。これは世間の田中正造に対するマイナスイメージを忠実になぞったものだろう。田中が騒いでいるから、「鉱毒事件」などというものが起こるのだ、百姓一揆の頭領だ、という言説もあるようだ。心があるならば、このようなことは言わないだろう、と述べる。
『田中正造選集4』111頁7行目〜最終行
มุมมอง 1414 ชั่วโมงที่ผ่านมา
「直訴について「滑稽新聞」への寄書」 明治34年12月20日 『滑稽新聞』は、宮武外骨発行の新聞。明治34年(1901)大阪で創刊。政治家や権力者を痛烈に風刺し庶民の人気を博するが、関係者の入獄や罰金刑を繰り返し受け、明治41年(1908)廃刊。(コトバンクより) このようなエッジの立った新聞に、田中正造自身が直訴の意味について語った重要な文書。まず、「狂っているとか頭がおかしいとか(痴)、呼びたければ呼べばいい」という意味の見出しがある。この「狂」という言葉には様々な意味がある。スケールが大きいとか熱心だとかいうポジティブな意味もある。しかし、一般的には、頭がおかしいという意味だと見なされているので、理由を説明する。もちろん、直訴が容易なことではないので知っている。それでも、鉱毒問題が脳裏から離れず、黙っていられなくなった。通常の請願権を行使するのではなく、最後の手段に遂げようとし...
『田中正造選集4』110頁6行目〜111頁5行目
มุมมอง 916 ชั่วโมงที่ผ่านมา
同胞人民の誰のみに被害が起きても、みな同じ人類の災難だという。ここは最重要。公害はたいてい特定地域の特定の人々を襲う。そこを放置すれば、いつ自分の身に同じことが降りかかっても、誰も助けてくれないことになる。これはレトリックだ。田中もこのようなことを言うときはある。しかし、ここではもっと直接的に、被害は人類の問題だと述べている。 それを救済するために政府があり、だからこそ税金も払っている。これを救済しなければ、政府はないということになる。もちろん、こう言うからといって、田中は無政府主義者だとは言えない。逆に、政府の役割と責 を大きくとらえている。 しかし、政府は圧制を加えてくる。それに対して、人民は一致して自衛し、生命を守らなければならない。 (足尾鉱毒事件略年表より) 12/19★松木村住民と古河市兵衛との間に土地等売買契約が成立し、全村が買収される。 星野金次郎は松木に踏...
『田中正造選集4』109頁最終行〜110頁6行目
มุมมอง 1219 ชั่วโมงที่ผ่านมา
古河駅を通じて、東京から熱心な宗教家、さらに女性運動家が来ていて、彼らに学ぶべきことが多い。このことが、かつて運動の中心地だった中下流域には伝わっていない。それどころか、自分たちが被害者であることすら忘れている。 また、古河町から東の、香取村、五霞村、静村も、大変な被害激甚地だという。古河町までは渡良瀬川流域なのでまだ分かるが、他はみな利根川流域である。しかし、渡良瀬川が合流しているのだから、この地域で鉱毒が出ないはずがない。この利根川流域には鉱毒被害の歴史がどれくらい伝わっているのだろうか。ほとんどないように思われる。
『田中正造選集4』109頁3行目〜最終行
มุมมอง 821 ชั่วโมงที่ผ่านมา
松本英一ほかへの手紙(カツ夫人宛書簡に同封)の続き 示談のことを後悔している人は、恥ずかしがらずに正直に言わなければならない。悔い改めるならば、神のごとき人々(おそらくキリスト教徒の多い視察人)も憐れんでくれる。 鉱毒問題はやっと国家の問題になったと田中は書く。直訴の反響について、よい効果を感じている。ということは、失敗だったという出だしとは、トーンが変わってきている。 また、直訴の反響は、何よりも宗教家の間で大きく、正当に匹敵する勢いだという。直訴後、この手紙が書かれるまでにも、キリスト教、仏教の両方で演説会が頻繁におこなわれている。これは、布川氏などはあまり重視してこなかったのでは? 直訴は宗教界にこそ、多大なる影響を与えた。このことは覚えておきたい(自分は、宗教学者なので)。 また、「すでに死んだものよりは、これから殺されないことを第一として、努力しなければならない。一刻の猶予...
『田中正造選集4』108頁後ろから6行目〜109頁2行目
มุมมอง 11วันที่ผ่านมา
田中カツほか宛書簡の続き 妻の田中カツは海老瀬にいると思われる。同じくその地域の松本英一ほかに宛てた同封の手紙を読む。 まずカツ宛書簡と同様、東京から視察に訪れる有志の人たちを神のようだとほめたたえる。これは被害民にとってありがたいという意味で励みになるだけでない。被害民も頑張らなければならないという意味で励ましとなる。この中では「古河、川辺、谷中、利島、海老瀬の有志」と言われる。これは渡良瀬川のなかでも利根川と合流する手前の下流域である。 下流域への言及が増えてきた印象を受ける。その要因は3つ考えられる。1)川俣事件によって館林周辺の指導者たちが被告となっているため。2)被害が実際に下流域で激しくなってきたため(洪水のため)。3)東京から視察に行くのに古河が便がよかったので視察人が多く訪れて注意が向いているため。 彼らに田中が勧めるのは、やはり請願書を用意することである。それに村民...
『田中正造選集4』107頁〜108頁10行目
มุมมอง 11วันที่ผ่านมา
田中カツほか宛書簡 明治34年12月18日 「正造は今から後は、この世にあるはずもない人である。さる10日に死ぬはずだったものである」という有名な台詞が出てくる。自分の足が弱くて転んだから、そして騎兵の一人が落馬したから、死ななかった、と。 文脈から、田中正造の妻カツは、板倉の海老瀬で鉱毒被害民の治療施設を開いて、他の人とともに忙しくしていることが読み取れる。潮田千勢子ほかの[おそらくキリスト教の]ご婦人が高山にいらっしゃると田中は知らせる。彼女らの慈悲心は、誠に天の父、天の母のようだという。これは新井奥邃の父母神を念頭に置いているだろう。 田中は、仲良く、妬みやそしりなく、一致して、天を祈ってほしいと書く。この手紙全体にキリスト教のトーンが漂っている。キリスト教徒が被害民を救済することで、キリスト教的共同体の雰囲気が出来上がっているのでは? 一方、田中は身体の調子はよいが、あまりに...
「足尾鉱毒事件略年表」明治34年12月10日〜17日
มุมมอง 17วันที่ผ่านมา
「足尾鉱毒事件略年表」から 12/10★被害地の町村長や有志ら、島地黙雷、内村鑑三らが、田中の見舞いに訪れる。田中は石川半山以外は誰にも会わず。密かに内幸町の植木屋に転宿。 直訴後★『毎日新聞』が「(謹奏状を)投げ入れることも出来ず、殺されもせざりしは遺憾なり」と書く 直訴後★木下尚江が田中正造の直訴状を書いた幸徳秋水を非難する 12/11★午後6時、有楽町の数寄屋橋教会にて鉱毒地救済婦人会「救済演説会」(弁士:田村直臣、木下尚江、島田三郎など)。 12/12★新聞に直訴文が掲載。幸徳秋水が直訴文を新聞各社に伝える。幸徳は『萬朝報』に「臣民の請願 田中正造の直訴に就て」を発表、直訴を弁護。 午後5時、神田区青年会館にて鉱毒地救済婦人会「足尾鉱毒演説会」(弁士:巌本善治、加藤熊一郎(加藤咄堂)、内村鑑三、黒岩周六(黒岩涙香)、幸徳伝次郎(幸徳秋水)、三宅雄次郎(三宅雪嶺)など) 12...
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』158頁〜166頁
มุมมอง 1114 วันที่ผ่านมา
直訴の評価について。まず田村紀雄の「名主請負主義」の表れという見方が紹介される。マルクス史観からは、足尾銅山鉱毒事件は近代資本主義の矛盾を露呈させた問題ととらえられる。被害民の請願運動も、階級闘争の観点から評価され、また批判される。だが、田中正造は生産手段を奪われたプロレタリアートと同じ階級に属さない。むしろ、それを支配する封建領主と農民とをつなぐ名主階級に属する。その枠内で農民の訴えや請願を請け負った。結局、それでは革命は起こらないと総括される。 田村はメディアが天皇直訴に注目することで、川俣事件公判や鉱毒事件そのものの報道の量が直訴後に減ったと指摘する。だが、多くの人が鉱毒被害地を訪問している。それを思えば、田中正造だけでなく、鉱毒問題への同情も集まったのではないか。確かに、川俣事件の公判に関する報道が、相対的に減ったということはありうるが。 布川は直訴事件の反響を次のようにまと...
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』142頁後ろから2行目〜144頁終わりまで
มุมมอง 1814 วันที่ผ่านมา
幸徳秋水の妻、千代子が、戦後に書いた回想録から、布川は12月9日の昼に、田中が来て、直訴状を書いたとする。ただし、かなりの年数が経っており、その記憶をあまり信頼しすぎない方がいいかもしれない。 また、妻が買ったのは奉書であった。布川は、田中が持っていた直訴状は美濃半紙だという。これは、佐野市郷土博物館などにある実物またはレプリカから分かるのだろう。となると、奉書は報道用に使われたことになる。つまり、この時はもう直訴状はできている。 そうすると、この日の昼に田中が来て直訴状を書いたという言い方は、誤解を生じやすい。その前に、直訴状は書かれており、この時に書かれたのは新聞発表用の控えである。そうなると、田中の修正の一部が『万朝報』版にも反映されていることは辻褄が合う。
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』137頁2行目〜138頁5行目
มุมมอง 2014 วันที่ผ่านมา
幸徳秋水が自筆の年譜と、島田宗三『田中正造翁余録』を根拠として、直訴文執筆過程を確認する。(この箇所に書かれていないこと、これまでに確認してきたことも含む。) 石川半山から幸徳秋水に直訴状の話が行く 11月12日:幸徳が直訴状を書き始める。 11月12 X日:田中ができたものを読み、修正を依頼 幸徳「注文が難しくて弱った」 「弱った」=田中の意図の通りに直せなかったところもある 田中:別の書き手を探す→よく書けたが、秘密を漏洩→ボツ (ただしこれは11月12日より前の可能性も〜布川は否定) 12月10-Y日までに:再び幸徳に依頼。 おそらくその後にまた修正協議 12月9日?:田中が自分で修正し、修正印を捺す それと並行して、幸徳も報道用のために、田中の要求した修正事項を盛り込む。これはおそらく打ち合わせた通り。つまり、田中の修正は、田中が勝手におこなったことばかりではない。 両者に共...
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』104頁後ろから2行目〜107頁後ろから7行目
มุมมอง 814 วันที่ผ่านมา
『明治天皇紀』(実録・伝記)をもとに、鉱毒被害に対する天皇の態度を推測する。押出しを受けて、天皇は4県知事に直接報告を求めるという異例の対応に出た。栃木県知事は、「政府に具申したが政府は動かなかった」と正直な報告をして「職を去った」。これが自らの辞職なのか、政府からの命令だったのかは、分からない。 すぐに返事をしなかった群馬県知事は更迭された。新しい知事は「政府は相当の調査をおこない適切な対応を取っている」と返答した。政府の立場と全く同じである。 ここから布川は、天皇が憂慮していたというのは、被害民の悲惨さではなく、政治体制への亀裂だと見る。おそらく政府批判をした栃木県知事が「職を去った」ことからの推測だろう。また、川俣事件で被害民弾圧を命じた山県有朋は、加害者である古河市兵衛を従五位にするよう画策した。これは、華族の仲間入りを果たしたことを意味する。古河虎之助(市兵衛の子ども)は男...
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』101ページ3行目〜103ページ7行目
มุมมอง 621 วันที่ผ่านมา
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』101ページ3行目〜103ページ7行目
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』50頁後ろから6行目~53頁後ろから4行目
มุมมอง 8หลายเดือนก่อน
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』50頁後ろから6行目~53頁後ろから4行目
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』47頁後ろから6行目〜50頁後ろから7行目
มุมมอง 10หลายเดือนก่อน
番外編:布川了『田中正造と天皇直訴事件』47頁後ろから6行目〜50頁後ろから7行目